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福島の「ゼロエフ」はどこにある? 出身作家が360キロ歩いたノンフィクション

   未曽有の放射線災害事故を引き起こした東京電力 福島第一原子力発電所を地元では、「イチエフ」と呼んだことは、事故後よく知られるようになった。同様に福島第二原発は「ニエフ」と呼ばれた。それでは、本書「ゼロエフ」とは何か?

   福島県出身の作家、古川日出男さんが、福島県の中通りと浜通りの360キロメートルを歩いて縦断したノンフィクションのタイトルは、さまざまな想像をかき立てる。

「ゼロエフ」(古川日出男著)講談社
  • 「ゼロエフ」はどこに……(写真は、海から見た福島第一原子力発電所)
    「ゼロエフ」はどこに……(写真は、海から見た福島第一原子力発電所)
  • 「ゼロエフ」はどこに……(写真は、海から見た福島第一原子力発電所)

シイタケ農家を継いだ兄の思い

   古川日出男さんは、1966年福島県郡山市生まれ。早稲田大学文学部中退。98年「13」で小説家デビュー。「アラビアの夜の種族」で日本推理作家協会賞・日本SF大賞、「LOVE」で三島由紀夫賞、「女たち三百人の裏切りの書」で野間文芸新人賞・読売文学賞をそれぞれ受賞。本書が初のノンフィクション作品だ。

   第一部「福島のちいさな森」、第二部「4号線と6号線」、第三部「国家・ゼロエフ・浄土」の三部構成になっている。ベースには2020年7月から8月にかけて、福島県内を歩いた体験があり、いろいろシャッフルして書かれている。  54歳の作家が一人で幹線道路を歩くのは交通事故の危険もあり、二人の若者が協力者として付き添い、隊列を組んだ。NHKの取材スタッフも随時同行した。

   古川さんの実家はシイタケ農家で、兄が家業を継いでいた。放射線事故の影響を受けたことは知っていたが、話を聞くことはできなかった。18歳で福島を出た古川さんには、「福島を捨てたかった」過去の苦い思いがあった。

   本書には、福島県内のさまざまな人が登場するが、著者が初めて家族と向き合った古川家の「物語」が導入部に置かれ、読ませる。2020年1月、兄への取材から始まる。

   シイタケ栽培には、露地栽培の原木シイタケとハウス栽培の菌床シイタケがある。古川家では菌床シイタケのみに転換していた。2011年4月、福島県内の多くで露地栽培シイタケが出荷停止になった。古川家の菌床シイタケは出荷できるが、売れなくなった。産地忌避が起きて、福島県産品は東京のスーパーの売り場には出回らなかった。

   古川さんの兄は地元で売っていたが、茸類の売り場は閑散としていたという。「福島県の人間も、それを――放射能汚染の代名詞である恐ろしいシイタケ等を――買い控えた。経済的被害は、激烈だった」。

地震で決壊したダム事故があった

   福島県内の専業農家では、自死する人が相次いだ。ショックを受けた兄だったが、シイタケ生産を続けることを決めた。

「茸類が、原発事故のシンボルだからこそ、やめるわけにはいかなかった」

   その言葉を聞いて、「泣きそうだった」と書いている。福島を「出たいから出た」人間である自分に「あの原発事故後に語れることは何もない」と思っていた古川さんが吹っ切れた。

   「他者の話にただ耳を傾ける、傾聴する」のでもいいのではないか、と。そして、延期された「2020東京五輪」の開会式と閉会式に合わせて、ロードムービーのような取材を始めたのだった。この模様は「目撃にっぽん 震災10年の『言葉』を刻む ~小説家・古川日出男 福島踏破~」として、2020年9月にNHK総合で放送された。

   福島第一原発事故の影響で、当時あまり注目されなかった事故の現場にも行った。須賀川市の西部にある灌漑用ダム藤沼湖の決壊現場だ。地震当日に150万トンの水が流出し、死者7人、行方不明者1人。慰霊碑を作るプロジェクトを進めている人に話を聞く。

「残さないと駄目なんです。残さないと消える。もしかしたら消される。それを避けたい。だからね、慰霊碑はね、石です。『この場所だったんだ』と言いたい。『ここで、こういう水害があったんだ』と建てたい。石ならば、ええ、石ならば消えないわけですから」

   4号線を宮城県境まで北上、東北本線で仙台まで行き、常磐線で宮城県山元町の坂元駅で降りて、6号線を南下した。相馬市では野馬追の騎馬武者を務める佐藤信幸さんに会った。避難指示区域に取り残されていた被災馬を引き取り、調教して野馬追に使ったという。

   新型コロナウイルスの影響で、2020年は無観客で野馬追は開催された。2011年も規模を縮小した開催した。批判はあったが、地元の人たちから「自分たちはいろいろと奪われた。海も奪われた。本当にいろいろと。だから、野馬追は。野馬追だけは――」と開催を望む声が届いたという。

   南相馬市の原町では、「語り部」をする女性と対話する。取材を受けてテレビに映ると、「出演料はいくらなの?」とか「有名になったね」と言われるという。内部では、語り部は悪人視されているということに愕然とする。生業でもないのに。

   語り部は震災当日、その後を再現しつづける。一方、地元は復興(と呼ばれるもの)に進み、過去が「なかったこと」になる、と古川さんは考える。

   東日本大震災から10年、みたいな区切りで震災は忘却されるのではないか、どうやったら伝えつづけられると考えますか、との問いに、女性は「傷を残すこと、傷はたぶん、ずっと治らない」と答えた。

100年後のために活動する社会学者

   福島県出身の社会学者、開沼博さんにも楢葉町で会う。福島をめぐる言説に基本ルールをつくろうと「はじめての福島学」などの本を出している人だ。

   やがて報道が福島を追わなくなると、ネガティブなイメージ、風評被害だけが残ることを懸念している。「百年後に残ることは何か?」を意識して動いているという。

「いまから本番だ、とは思います。さっきも言いましたが、報道機関にはもうネタはないですし。そろそろ本当の戦がスタートしますね」

   開沼さんの言葉をかみしめ、福島の今後を見つづけるしかない、と思った。

   さて、「ゼロエフ」である。イチエフ、ニエフがあり、浪江町と小高町(現・南相馬市)にまたがるエリアには東北電力の「浪江・小高原発」計画がかつてあり、古川さんは仮にそれを「サンエフ」と呼んだ。ならば、ゼロエフはあると。「しかし、どこに?」。それを探す旅でもあった。(渡辺淳悦)

「ゼロエフ」
古川日出男著
講談社
1800円(税別)