J-CAST ニュース ビジネス & メディアウォッチ
閉じる

「生娘シャブづけ戦略」の過ちって、新卒採用で陥りがちな過ちと似たトコないですか?【vol.12】(川上敬太郎)

   兼業主夫になり、自分で食事の支度をするようになってからというもの、外食する機会が著しく減ってしまいました。

   なので、家計をやりくりして、たまに家族で外食に出かける時は嬉しくてたまりません。なにせ、注文するだけで料理が出てくるのですから。しかも、食べ終わった後は食器の片づけまでやってくれて、洗い物をする必要もありません。ラクちんです。

  • 吉野家元役員の発言について考える
    吉野家元役員の発言について考える
  • 吉野家元役員の発言について考える

人が不幸になるゴールを連想させるたとえは不適格

   また、外食機会が減ることで、時折、無性に恋しくなる味もあります。

   その1つが、吉野家の牛丼。初めて食べた時、「なんや、この美味いドンブリは!」とガッついたことを今でも鮮明に覚えています。家でも牛丼をつくることはできますが、似たような味にはなっても、何かが違います。

   なぜ、吉牛(よしぎゅう)はあんなに美味いのでしょう? 久々に食べたいなぁ...。

   などと思っていたら、ニュースで吉牛が大きく取り上げられてビックリしました。でも、よろしくない内容のようです。なんでも、マーケティングに長けた吉野家の元役員が、大学の社会人向け講座で「生娘シャブづけ戦略」なるものを披露したとか。

   品性のかけらも感じない戦略にあきれつつも、「そうか。自分もまんまとシャブづけにされていたのか」と、一瞬思ってしまいました。

   しかし、冷静に考えると、自分は決して吉牛の依存症になっているわけではありません。吉牛は好きですが、なくても生きていけます。禁断症状も出ませんし、シャブづけにされた感はありません。

   そもそも、シャブとは覚せい剤のことですから、「シャブづけ」とは違法薬物を投与して依存症にさせることです。それって、その人を不幸にしますよね? 「生娘」や「シャブづけ」という言葉の不適切さに注目が集まるのは当然ですが、人が不幸になるゴールを連想させるたとえを使っている点においても、完全にNGではないですか。

   吉牛は、アラフィフ男の自分がいま食べても十分美味い食べ物です。別に、学生時代に食べたことで依存症になったわけではありません。大人になってから高級な料理もそれなりにいただいたことはありますが、やっぱり吉牛は吉牛で美味いのです。

   そう考えると、「生娘シャブづけ戦略」には顧客視点が全く反映されておらず、マーケティングの施策としての要諦を何1つ言い当てていないように思います。ますますもって、ナゼこんなたとえを使ったのか意味がわかりません。

「白いキャンバスを会社の色に染める」というたとえにもギモンが...

   ただ、かねてビジネスシーンでよく使われてきた表現で、似た視点を感じるものが脳裏に浮かびました。

   それは、新卒採用の利点を説明するたとえで、「白いキャンバスを会社の色に染める」という表現です。

   社会人としての経験がない新卒学生は、いわば白いキャンバスです。入社すると、その会社で得た経験が「色」となって、白いキャンバスを染めていきます。そのこと自体は必ずしも悪い意味ではなく、新卒学生の状態をありのままに表したたとえかもしれません。

   しかしながら、

「すでに色のついた中途採用の社員は、その上から染め直そうとしても色が混ざってしまう。新卒は白いキャンバスだから、どんなにツラいことでも、理不尽なことでも、素直に受け入れやすい」

などと、洗脳しやすい人材、という意味合いでも使われてきたたとえです。その場合、使われている言葉が下品か否かの違いだけで、「生娘シャブづけ戦略」と相通じるものがあるように思います。

   「生娘シャブづけ戦略」にも、ある意味での新卒者洗脳にも共通するのは、相手の自由意思を奪い「支配」するという考え方だと私は思います。それって、独裁者が国民の自由意思を奪おうとしたり、他国に軍隊を送り込んで武力で制圧したりするのと、根本的に同じ思想じゃないですか?

   いかに巧みに支配するか、なんて発想では、マーケティングも新卒採用も邪悪な影が漂うことになってしまいます。吉牛が多くの顧客から支持されてきたのは、他では食べられない味を含め、「うまい、やすい、はやい」という魅力があるからですよ。

   いかに支配するかという発想から抜け出し、相手の自由意思によって選ばれるための魅力をどう備えるか、という発想に転換しないと、マーケティングも新卒採用も、結局どこかでボロが出ることになります。世の中、なにごとにおいても選択肢の幅がどんどん広がってきていますから。人を支配するなんていう前時代的発想は、サッサと放棄した方がいいのです。

(川上敬太郎)