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「破壊と創造」辣腕パナソニック中村邦夫氏を偲ぶ 「中村改革」は道半ば...新たな収益の柱育て、名門復活を

   かつての輝きを失ってしまった日本の大手家電メーカー。振り返ると、分水嶺となったのは世の中のデジタル化が一気に進んだ2000年代初頭だった。

   その時代に松下電器産業(現パナソニックホールディングス=HD)の改革に敏腕を振るった元社長、中村邦夫氏が2022年11月28日、肺炎のため死去した。83歳だった。

   当時は「中村改革」とも讃えられたが、現在のパナソニックHDは長期低迷から抜け出せない状況が続く。中村氏が名門企業に残したものとは何だったのか。

  • パナソニック元社長、中村邦夫氏の訃報に寄せて(写真はイメージ)
    パナソニック元社長、中村邦夫氏の訃報に寄せて(写真はイメージ)
  • パナソニック元社長、中村邦夫氏の訃報に寄せて(写真はイメージ)

グループの組織再編を指揮、ITバブル崩壊後の危機に約1万3000人「人員削減」

   大阪大学経済学部を卒業し、松下電器に入社した中村氏は、主に営業畑を歩んだ。社長に就いた2000年当時の松下電器は、いびつとも言える組織だった。

   創業者の松下幸之助氏(1894~1989年)が各地に設けた事業会社は、国内の需要が拡大した高度経済成長期には競い合うことで売り上げが拡大したが、1990年代に入ってバブル経済が崩壊すると需要が頭打ちになり、非効率さが目立っていた。

   そこで中村氏は2002年、上場会社も含むグループ5社を完全子会社化。2004年には、「兄弟会社」とされた松下電工への出資比率を引き上げ、これも子会社化に踏み切った。松下電器と張り合う気風のグループ企業もあったが、株式公開買い付け(TOB)も含む強い姿勢を示して、現在に続くグループ経営の礎を築いた。

   組織再編と同時期に進行したのがITバブルの崩壊だった。

   米国で相次いで誕生したインターネット関連企業に資金が流れ込み、期待が過熱していたが、2001年の米国同時多発テロを境に米国経済が深刻な不況に突入する。世界的に消費が冷え込み、松下電器は2002年3月期に4000億円を超える多額の最終赤字に陥った。

   松下電器は空前の危機を迎え、中村氏は終戦直後の混乱期以来となる早期退職者の募集に踏み切り、約1万3000人もの人員削減を断行した。創業以来、社員を大事にする伝統を守ってきた松下電器には異例の出来事だった。

業績の「V字回復」に導くが、勝負に出たプラズマテレビで「誤算」

   反転攻勢を目指した中村氏が肩入れしたのは、普及が始まりつつあったデジタル家電だった。

   薄型テレビやハードディスク付きDVDレコーダー、デジタルカメラなどに販売促進を集中させ、買い替え需要の喚起に成功。リストラの効果もあり、2004年3月期には最終損益を黒字化させ、「V字回復」ともてはやされた。

   ただ、そこに誤算の始まりがあった。

   当時の薄型テレビの表示方式には、現在主流の液晶のほかにプラズマがあり、松下電器は大画面化に向くプラズマテレビに賭けた。松下電器にはブラウン管テレビの「成功体験」があり、当時はテレビが「家電の王様」と位置付けられていた。

   大阪湾岸には巨大なプラズマテレビ工場を相次いで建設し、同時期に計画が進んだシャープの液晶テレビ工場と合わせて、大阪湾岸は「パネルベイ」と称されて期待が高まった。

   だが、液晶テレビも大画面化ができるようになるとプラズマテレビの優位性は低下し、他メーカーは相次いで撤退。量産効果で液晶テレビの価格が下がると、プラズマテレビは太刀打ちできなくなった。

   プラズマテレビ工場の減損処理が響き、2012年3月期には7000億円を超える最終赤字を計上。中村氏は2006年に社長の座を譲って会長に就いた後も実権を握っていたが、2012年6月に会長を退任した。巨額赤字との関連が取り沙汰された。

EV向け電池などへの活路も、白物家電で稼ぐ構造変わらず

   「創業者の経営理念以外は全て変えていい」と公言していた中村氏は、社長時代の2003年にグローバルブランドを「パナソニック」に統一する。

   さらに、会長時代の2008年には、社名を松下電器産業からパナソニック(2022年4月からパナソニックHD)に変えた。日本の家電ブランドの代名詞だった「ナショナル」さえも捨て、世界を見据えてブランド力の向上を図ったのだ。

   中村氏が去った後のパナソニックは、「何の会社なのか」という自問自答が続いている。

   中村会長時代の2009年に買収した三洋電機が持っていたリチウムイオン電池の技術を使い、電気自動車(EV)向け電池の生産に傾注したが、今も利益の柱にまでは育っていない。

   EV向け電池に限らず、企業向けの製品やソリューションサービスを重視する姿勢を強めているが、白物家電が稼ぐ構造は変わっていない。

   社長時代には「破壊と創造」というスローガンを掲げて改革の旗を振っていた中村氏。かつて目指していた「売上高10兆円」は今も達成にはほど遠く、事業の入れ替えを進めて成長を続ける日立製作所、ソニーグループとの差は広がるばかりだ。

   「改革」は未完のまま、最初の旗振り役が泉下の人となった。(ジャーナリスト 済田経夫)