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農本主義から富国強兵へ向かう時代 新渡戸稲造の思想に学ぶ

■『新渡戸稲造のまなざし』(著・三島徳三 北海道大学出版会)

   明治の北海道では、農政は開拓政策の柱。全国から旧士族が入植したが、十勝地域は、民間の人々が自主独立の精神で入植した。先日訪れた十勝更別の農家は青森出身。酪農に従事した後畑作に転じ、家族3人で150ヘクタールを耕作する。

   この本を選んだ理由のひとつは、農業分野のフロンティア精神の歴史的な経緯を知ること。もうひとつは地方創生の文脈だ。商工業の集積には港湾空港、労働者、平地といった地理的条件がある。今では農林水産業に適した地域は後背地扱いされがちだが、かつては富の源泉だ。農本主義から富国強兵政策へと移行する過程で、渦中の人だった新渡戸稲造がどのような思想的経過を遂げたのか。わたし達は新渡戸哲学から学ぶことがあるのではないか。

農商工鼎立の目指すところ

   新渡戸稲造は1862年、南部藩士の三男に生まれ14歳で東京外国語学校、15歳で札幌農学校、21歳で東京大学文学部に入学する。農政学、英文学を学んで太平洋の橋となりたいという志を立てる。内村鑑三、宮部金吾とともに札幌農学校在学中洗礼を受けたのは、キリスト教に基づく人格教育の重要性に気づいたからだろう。

   稲造は東大卒業後、札幌農学校の教授になるが、36歳のとき激務による病になり、休暇中に「農業本論」を著す。本邦初の農学の体系を構築した画期的著作とされている。新渡戸の農学への関心は、経済面よりは社会面にあった。商工業の発展に伴って無産階級が出現した当時、農民が果たす政治的役割とはどのようなものか。進取の気性というよりは従属と固守を志向する農民は社会主義を受け入れにくいので社会の安定層になるというのが、新渡戸の見解だ。農業が貴重な産業だという認識も新渡戸の特徴だ。自然に作用する、廃物を利用する、国富の基礎である、商工業と相まって鼎となる、などの認識である。

   政府が資本を要する工業を振興し、商工業本位論が優勢となった1908年、新渡戸は農業本論を増補した。都市と田舎を問わず、農業を巡る世相の急速な変化があったためだろう。

   新渡戸は体制派反体制派の知識人ではなく現実を行動した知識人だった。内村鑑三から「新渡戸は博識だが全体としてまとまりがなく結論に個性がない」という評価は、むしろそれが新渡戸の個性だと積極的に評価しても良いのではないか。新渡戸は農学に関する妥協をした上で、ナショナリズムと国際平和に軸足を移して行く。

熱狂的愛国心と憂国心

   明治20年代は、脱亜入欧に共鳴できない人びとが主張を強め、思想的対立が強まった時代だ。

   新渡戸は「わが国最近の熱狂的愛国主義」を発表し、諸国民の川は合流して大海に入り各々は特選の捧げ物を大海に注ぎ込む。新時代が到来する。平民社会ができ上がるように四海同胞心ともいうべき思想になると説いた。そして、30年あまりのちの1930年には敵対心や侵略ではなく憂国心、すなわち母心ともいうべき愛国心と友情を育てる優しい議論が必要だと論じた。アジア人として初めて国際連盟の事務次長となった経験が今こそ「憂国の士が必要だ」という確信に昇華していたのだろう。

武士道出版に込めた願い

   武士道は、1900年に米国で出版された。農業本論の出版の二年後、未だ療養中の身だった。

   ペリー提督の来日から40年、北海道開拓から30年が経つが、日米が対等なパートナーとして友情で結ばれた国になる道筋は見えていない。キリスト教と武士道の共通点を明らかにし、双方が結びついて新しい社会の思想潮流をリードしたい。そんな夢を抱いて執筆したからこそ、精力的に全米で講演し、心の友を増やそうと奮闘したのではないか。その努力が、20年後の国連事務次長就任に繋がり、諸国民からの敬愛を集めたのではないか。武士道の記述のうち、敬天愛人につながる「道」、「知性よりも品性」の二点は、同書の中で特に重視されて良いくだりだと思われる。

   新渡戸稲造のまなざし。稲造は地球の将来をどのように理想し、その実現のために現実を生きたのか。新渡戸哲学と稲造が残した足跡と業績を学びたい人がいたら、真っ先に読むに値する一冊だ。

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