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立花隆『田中金脈研究』は「文春砲」のルーツ? 100人以上「チーム取材」のすごさ

   評論家・ジャーナリストの立花隆さんは画期的な著作『田中金脈研究』で有名だった。政治とカネ、最高権力者の秘部に深く切り込んだ同書は、現代ジャーナリズムの金字塔とされる。何がそんなにすごかったのか。

  • 『田中角栄研究全記録(上)』(講談社)
    『田中角栄研究全記録(上)』(講談社)
  • 『田中角栄研究全記録(上)』(講談社)

「錬金術」を暴く

   文藝春秋の1974年11月号で立花さんが「田中角栄研究―その金脈と人脈」を発表したとき、田中氏は総理大臣だった。徒手空拳で首相まで上り詰めた戦後日本を代表する風雲児として人気があった。豊臣秀吉になぞらえて「今太閤」ともてはやされたりもしていた。

   立花さんが鋭く指摘したのは、田中氏の「錬金術」だ。田中氏は当時「日本列島改造論」を推進していたが、立花さんは、関連企業やぺーパーカンパニーを使った「土地ころがし」の実態を暴いた。角栄神話がぐらつき、その後のロッキード事件が追い打ちをかけた。田中氏はあっという間に得意の絶頂から転げ落ちることになる。

   立花さんは書いている。

「いまだに根強く残っている田中伝説の、苦学力行、刻苦勉励による叩き上げの成功者というイメージが田中にふさわしいのは、二十四歳までで、それ以後田中がやってきたことは、正業とはいいがたい」

   立花さんは『研究』で元首相には4つの側面があると指摘した。政治家、実業家、資産家、虚業家だ。この4つは複雑に絡み合うが、『研究』では主に「虚業家」の部分を白日にさらし衝撃を与えた。

「アブク銭」手に政界へ

   立花さんが、田中氏の苦学力行を「二十四歳まで」と限定しているのは理由がある。

   立花さんは、田中氏がとんとん拍子で飛躍するきっかけになったのは昭和17(1942)年、23歳の時に8歳年上の坂本はなさんと結婚したことだと見ているからだ。

   はなさんは当時、実家に出戻っており、7歳の連れ子がいた。坂本家は、坂本組という、かなり大きな土建業兼材木屋を営み、たくさんの地所を抱えていた。その資産を受けついだことで、田中氏の小さな設計事務所が、結婚翌年には社員100人以上の田中土建工業に急拡大したと『研究』は指摘する。

   このあたりのことは、石原慎太郎氏が田中氏について書いたベストセラー『天才』(幻冬舎、2016年)とは大きなずれがある。『天才』ではおおむねこうだ。

「事務所として借りた家の家主の娘に好意以上のものを感じるようになり結婚。今までの個人企業を株式会社に変えると、年間の施工実績が全国50社に入るまでに育った。...昭和19年には、理研の工場を朝鮮に移すという当時のお金で2000万円を超える大事業を請け負った。しかし敗戦でご破算。資産のすべてを朝鮮に寄付すると宣言して帰国した」
「日本に戻ると旧知の人物から、進歩党への300万円の資金援助を頼まれ、『即座に快諾』。自分も、『15万円出して黙って神輿に乗っていれば当選する』といわれ、ついその気になって昭和21年4月の衆院選挙に立候補したが、落選。1年後の総選挙でこんどは当選し、政治家としての第一歩を踏み出した・・・」

   これは、田中氏本人が書いた日本経済新聞の「私の履歴書」(1966年)の内容とほぼ重なるが、立花さんは『研究』で疑問を投げかける。戦後すぐの巨額政治献金、2度の国政選挙などの資金はいったいどこから出ていたのかと。そして当時の関係者をたどり、朝鮮で請け負った工場移転の前払い金をそっくりいただき、その莫大な「アブク銭」を手に政治の世界に入ったとみる。

チーム取材の原型

   田中氏の戦前の活動までさかのぼり、「錬金術」を暴いた『田中角栄研究』。今では単に立花隆さん一人の著作のように思われているが、実際には複数の取材者によるものだった。

   『田中角栄研究全記録』(講談社)には、関係した編集者や取材記者の全氏名が掲載されている。延べ100人以上もいて壮観だ。もともとは月刊文藝春秋でスタートしたが、その後、発表の舞台を「月刊現代」など他の複数の媒体に移したこともあって、『全記録』は講談社からの刊行になっている。

   『研究』が画期的だったのは、雑誌の論文が首相を引きずりおろすきっかけになったというだけではない。雑誌の取材で異例の大きな取材班を組んだ。いわゆる「チーム取材」。上述のメンバー表をながめると、のちにノンフィクション作家として大宅賞などを受賞したり、数々の単行本を書いて有名になったりした人物が何人も出ている。それだけ腕利きが集められていたのだろう。

   この取材で、毎日のように登記所に通って謄本を取ったというメンバーの一人によると、同じように謄本を取る人物がいるので、それとなく探ったら、「東京地検」の人だったそうだ。謄本を取る、という作業がマスコミの基礎取材の一つとして定着したのも、この『角栄研究』からではないか。

   文藝春秋は今や「文春砲」で有名だ。おそらくは毎回、相当な取材班を組み、チーム取材を重ねているものと思われる。そのルーツをたどると、74年の「田中角栄研究」にたどり着くかもしれない。類似の手法はマスコミ各社の調査報道で幅広く行われている。その意味でも立花さんの功績は大きかったといえる。