市場原理で動く米国の医療―やっと実現したものの失望続きの皆保険―

「沈みゆく大国アメリカ」(堤未果著、集英社新書)

   米国では、入院するにも保険会社の許可が必要だった。

   以下は、評者が、以前、米国に駐在していた際に、妻が入院したときの経験である。

「はい。○○○医療保険お客様窓口です」
「被保険者番号×××の△△△と申しますが、妻が切迫早産で入院が必要となりました。今、救急車がこちら(主治医の診療所)に向かっているので直ちに入院許可をいただきたいのですが・・・」
「ちょっと待ってください。主治医の名前と連絡先、それから入院予定の病院の名前と連絡先を教えてください」
「主治医は○○医師、連絡先は×××。クリニックの名前は・・・」(隣の看護師さんに教えてもらう)「そう、◇◇クリニックです」
「今、検討しますからちょっとお待ちください」

   先方がそう言ってから10分。診療所に救急車が到着。大男二人に小柄な女性一人がどやどやとやっている。受話器の向こうから「この電話は私どもにとって大変重要なものです。お切りにならずにこのままお待ちください」とテープ音の繰り返し。

   それから10分。まだ返事はない。救急隊員の「いい加減にしてくれ」といった雰囲気がびんびん伝わってくる。

   「産まれてしまっては大変だから、保険は後にして病院に向かったら」、みかねた看護師が促す。

「それじゃ、先に行っててください。私は後で追いかけますから...」

   搬送ベッドに乗せられた妻が救急車とともに行ってしまう。それから返事を待つこともう5分。

「お待たせしました。入院許可がおりました。許可番号は○○○○です。今回の許可は3日有効です。3日経ってもなお入院が必要でしたら更新いたします。お大事に」

   これは16年も前の経験だが、本書を読んで、今なお米国の医療の実情は変わらないのだなと改めて思った。

   本書は、「ルポ貧困大国アメリカ」で、米国の格差問題を鋭く抉り、日本エッセイスト・クラブ賞、新書大賞を受賞した筆者が、「永遠の夢」と言われてきた「国民皆保険」を実現したオバマ大統領の医療改革の(負の)実情を、分かりやすく解説したルポルタージュである。

沈みゆく大国アメリカ
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やっと実現した国民皆保険―オバマケア―

   「オバマの医療改革(天野拓著)」によれば、20世紀以降の米国の医療政策は、「国民皆保険導入の試みの失敗の繰り返しの歴史」だという。自由であることに最大の価値を置き、自己責任を重んずる国柄ゆえか、「大きな政府、反対」「社会主義的だ」といった批判が強く、歴代の政権が何度挑戦しても、うまくゆかずにきた。評者が米国に駐在していた1990年代後半は、クリントン大統領の時代だったが、その妻、ヒラリー・クリントンと共に進めてきた皆保険導入が失敗した直後であり、諦めムードが漂っていた。結局、政権後期には、児童のための医療保険プログラムの導入など漸進主義的な改善策が講じられるにとどまった。

   クリントン政権の失敗により、国民皆保険は改めて「永遠の夢か」と思われていたが、2010年、ついにオバマ大統領の手によってその夢が実現した(カバー率は94%と見込まれ、正確には「皆保険」ではない)。

   本書では、それまで無保険者だった人々が、オバマケアの実現を喜ぶ様子が描かれている。

「オバマケアの存在を知った時、この差別まみれのアメリカにとって大きな希望だと思いました」
「今後は保険金の生涯支払い額に天井はなし、既往歴で加入拒否すれば罰金だ。スカッとするぜ」

蓋を開けると穴だらけ―こんなはずではなかったと支援者も不満―

   しかし、事はそう単純には進まなかった。

   共和党寄りの26州が訴えた「全国民の保険加入義務化は違憲」との訴訟は、何とか最高裁で「合憲」との判断を勝ち取ったものの、昨年、制度が実施されて以降、トラブルが続いている。

   日本でも報道されたが、多くの国民が保険申請に殺到し、オンラインシステムの不具合でサーバーがダウン。共和党から容赦ない非難を浴びた。こうした実施直後のつまずきは、よくあることだが、本書によれば、むしろ、この法案に期待し、応援してきた人々から大きな失望を買っていることが問題のようだ。

「今よりもずっと安くて充実した保険に入れる」
「保険会社の法外な請求にも上限が設定されるから、自己破産に怯えなくてよくなる」
「過去の病気を理由に保険加入を拒否されたり、解約されることもなくなる」

など、オバマケアへの期待は大きかった。

   しかし、現実には――

①無保険者の加入等により給付費が拡大し、保険料が大幅にアップするケースが相次いでいる
②正規社員50人以上の企業に義務付けられた従業員への保険提供を嫌って、社員の非正規化やリストラが横行している
③企業から保険が提供されない者が加入するオバマケア保険は、医師等に支払われる診療報酬が低いために、これを取り扱わない医療機関が続出している(保険に入っても事実上、医療が受けられない)
④既往歴がある者の加入は認めても、高額な医薬品を保険対象薬のリストから外すなど、事実上の給付制限を行っている

――など、米国民の期待を裏切る事象が多発しており、オバマケアに対する失望につながっている。

オバマケアと日本の皆保険はまったく違う

   「皆保険」が実現したと言われながらも、前述のような事象が生じる背景には、医療を市場に並ぶ「商品」の一つだと考え、市場原理を基本として、提供し続けていることがあると本書は指摘する。

   日本の場合には、公平・平等の意識の下、憲法25条(生存権)に基づく社会保障の一環として位置づけられており、日米両国の医療は、制度の成り立ちからして180度真逆だという。

   「オバマケアと日本の皆保険制度はまったく違う!」のだ。

   日本の医療に対する国民の批判は尽きることはないが、それでもやはり、「国民皆保険」への信頼は大きい。日本では、水や空気のように「アタリマエ」と思われている皆保険制度であるが、未曽有の超高齢社会にあって、状況の厳しさは増しているが、何とか守り、支えていきたいものだと思う。

厚生労働省(課長級)JOJO

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