同じナポレオン戦争を描いて人気に大差が生じた理由

   ベートーヴェンの「ウェリントンの勝利(戦争交響曲)」は、現代ではほとんど演奏会の曲目として取り上げられないマイナー曲となっていますが、今日登場する、ロシアの作曲家、チャイコフスキーの「大序曲 1812年」は、頻繁に演奏される人気曲です。

   この曲も、ナポレオン率いるフランス大陸軍を打ち負かすストーリに沿って書かれていて、ベートーヴェンの曲と構成が似ています。フランス側、それと敵対する連合側(チャイコフスキーの場合は当然、ロシア軍ですが)を表す旋律があり、前半はフランス側の旋律、すなわちフランス国歌の「ラ・マルセイエーズ」が聞こえて、ナポレオン軍有利を表しているのですが、その後激しい戦いがあり、最後は、ロシア軍の勝利を祝う、ロシア国歌が教会の鐘を模した打楽器と共に、華麗なるブラスのアンサンブルで演奏されます。

   また、戦いのシーンを盛り上げる音として、カノン砲の音が書き込まれていて、通常の演奏会では、ベートーヴェンの曲と同じように、大太鼓で演奏するのですが、人気が高いこの曲は、アメリカ軍や日本の自衛隊の軍楽隊の演奏と共に、本物の重火器を使って、音を出す―当然、屋外での演奏になりますが―という派手な演奏の試みもたびたびおこなわれてきました。

「大序曲 1812年」のCDジャケットの数々
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ともに作曲に気乗りせず

   チャイコフスキーも、ベートーヴェンと同じように、この曲を作曲するのには、当初乗り気ではありませんでした。ロシアで開かれる予定の産業博覧会で演奏するために、ぜひ、ロシアの歴史にかかわる曲を書いてくれ、と友人であり恩人であるニコライ・ルービンシュタインという音楽家や出版社に依頼されて、しぶしぶ筆をとったのでした。

   チャイコフスキーは、交響曲などの場合でも、金管楽器による華麗なフレーズを盛り込むことが多く、決して、「派手な曲が苦手」な作曲家ではありませんでしたが、自分の芸術的欲求に基づかない作曲を引き受けるのに最後まで迷い、作品が出来上がってからも、この曲は出来が良くない、という謙遜をしていました。

   依頼のきっかけであった博覧会は結局その年に開かれず、1年遅れでやっとこぎつけた初演の舞台でも、この曲はたいして評判になりませんでした。チャイコフスキーは、それも当然、と考えていたのですが、皮肉なことに、初演から5年後、彼自身が指揮をしたコンサートでこの曲を演奏したところ、たいへんな評判となり、爆発的人気がでます。その成功に、チャイコフスキー本人も考えを改めたようで、もともと、西ヨーロッパに旅することが多かった彼は、ロシア国内以外でも、この曲を演奏し、さらに評判となります。

   以後、途切れることなく現代まで、「1812年」はチャイコフスキーの代表曲として、オーケストラの演奏会で繰り返し頻繁に取り上げられています。

"歴史"の作品化だった「大序曲 1812年」

   クラシックにおける欠かせない作曲家2人によって、似たような経緯で作曲され、曲の構成も似ていて、本人が最初「依頼によりしぶしぶ書いた」と考えていた、というところまでそっくりな2曲なのに、どうして、人気にこれほどの差が出てしまったのでしょうか?

   一つは、ベートーヴェンの曲は、戦争のすぐあと時代にかかれているのに対し、チャイコフスキーの曲は、実際の戦闘より、約70年後の作品だということ。この連載でも取り上げた「トルコ行進曲」が、実際のトルコ侵攻から約1世紀後に書かれているということを考え合わせると、題材が歴史になってからのほうが、作品としては、成立しやすい、といえるのかもしれません。現在のことを描いて歴史と共に忘却されかけたベートーヴェンの作品に対し、ロシアの輝かしい歴史を、半世紀以上あとの時代に題材にしたチャイコフスキーの作品は、成立した時点で、歴史の荒波に耐える力を持っていたのかもしれません。

   また、作られた時代も違います。ベートーヴェンは「古典派」と呼ばれる時代、チャイコフスキーは、「ロマン派」時代の人です。前者に対し、後者の時代は、オーケストラというクラシック音楽最大のアンサンブルが発展して大きくなっていました。

   今日と同じく、迫力あるオーケストラサウンドを演奏会場で聴くことが出来るようになった19世紀後半に登場した「大序曲 1812年」は、最初から、人々が、曲の魅力に気づかされる迫力のサウンドで演奏されたのです。

   長い歴史を持つクラシック音楽の中には、このように、人気の明暗を分けるようなエピソードを持った曲たちがあります。

本田聖嗣

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