2018年 7月 17日 (火)

加藤千洋の「天安門クロニクル」(3)
バラと戦車(上)初夏の平穏な午後

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   1989年。6月初旬の北京は公園や大通りの植え込みで薄紅色のバラが咲きこぼれるさわやかな初夏の季節だ。夕刻7時前後はまだ薄暮の時間帯で、3日の土曜日は夕食後のそぞろ歩きに繰り出した老若男女の姿が目立った。

  • 「民主の女神」像は天安門の毛沢東肖像と向き合う形で建った。短命だったが学生運動のシンボルとなり、市民の関心も集めた。 (1989年5月、加藤千洋氏撮影)
    「民主の女神」像は天安門の毛沢東肖像と向き合う形で建った。短命だったが学生運動のシンボルとなり、市民の関心も集めた。 (1989年5月、加藤千洋氏撮影)
  • 北京市郊外の幹線道路わきにずらり停車した軍の幌付トラック(1989年5月、加藤千洋氏撮影)
    北京市郊外の幹線道路わきにずらり停車した軍の幌付トラック(1989年5月、加藤千洋氏撮影)

市民もひきつけた「民主の女神」像

   当時話題になっていたのは5月30日に広場北部の長安街寄りに姿を現した高さ8メートルの「民主の女神」像。親子連れや祖父母と孫、若者グループなどが周りを取り巻き、両手でたいまつを掲げたデザインの白い像を入れて記念写真を撮り合っていた。きわめて平和な風景が私の目に焼き付いている。

   女神像は中央美術学院ら芸術系大学の学生が共同制作したもので、米国民主主義の象徴のニューヨークの「自由の女神」像をモデルにしていた。

   5月20日に建国後初の戒厳令が首都北京に発令され、すでに2週間が経過していた。戒厳部隊は、北京軍区所属の部隊を中心に何度か増員され、計18万人規模になっていた。当時の総兵力320万人の6%が動員されたことになる。耳にした情報では、大部隊の動員は「学生鎮圧」「秩序回復」だけでなく、軍の一部の「反乱警戒」もあったという。

   戒厳部隊は市中心部には入らず、周辺の幹線道路沿いに駐屯していた。私は市西部の幹線道路ロータリーで目撃した場面が忘れられない。

   兵士を運んできたホロ付きの大型トラックがずらり並び、装甲車や戦車も見られた。押し掛けた学生や市民が手と手をつなぎ、座り込んだ20歳前後のニキビ面の兵士に「人民のための軍隊だろう」「市内には入らないでくれ」と必死に呼びかける。

   すると一人の女子学生が立ちあがって戦車に近づいた。

「人民の子弟兵でしょ。一部の偉い人のためでなく、人民を支援してください。中国の兵隊さんが、一番つらいということ、私たち、よく知っている」

   そう言ってから、戦車の砲身に薄紅色のバラの花を差し込んだのだ。

   そんな光景と、初夏の週末の広場の平穏な様子を目にしたので、「きょうも部隊は動かないだろうな」と、ますます楽観的な判断に傾いてしまった。

不可解な軍の動き

   ただ3日早朝、不可解な軍の動きがあった。午前3時すぎ、戒厳部隊兵士が北京中心部に突然姿を現し、一部は広場で学生らと小競り合いを演じた。

   私は明け方近くなって気づき、広場東のホテル北京飯店の前で一団を目撃した。水筒と非常食を持っているだけで丸腰しだった。郊外に留まる部隊も加わっていたようだが、秘かに人民大会堂や中山公園などに配置されていた兵士たちではないかとも言われた。彼らに問いかけても、命令通りなのか、黙して語らなかった。意図は不明だったが、後から考えれば間もなく決断する実力行使の瀬踏みだったのかもしれない。北京の地理も知らない、地方から動員した兵士の訓練説もあった。真相は不明だ。

   総じて「膠着状態」が続く中、私は短い記事を東京へ送り、さあ一週間が終わったと気分は軽かった。久しぶりに洋風のものでも食べようかと、市東部の外資系ホテルのカフェでハンバーガーと珈琲で腹ごしらえした。いまの北京の街角にはスターバックスがあちこちにあるが、当時は、そのホテルが「珈琲らしい珈琲が飲める」という、数少ない"オアシス"だった。

   食後、王府井大通りに近い投宿先のホテルにいったん戻り、東京の『AERA』編集部と連絡。重視していた取材相手のAに電話し、後で訪ねる約束を取り付けた。当時、自宅に固定電話を持つのは党や政府機関の幹部らに限られ、庶民は町内にある「公用電話」に頼っていた。

   北京市内の移動には自転車を使っていた。一回目の北京特派員勤務時代(1984年12月~88年6月)に愛用したデンマーク製のスポーツ車だった。外国人向け商品を扱う北京友諠商店で購入したが、88年に帰国する際、街で知り合った若い友人にプレゼントした。鉄道関係や国営工場に勤める家族がいる彼は情報通で、時折、記事のヒントになる貴重な情報をもたらしてくれた。お礼の意味もあったのだが、それを再び取り戻し、取材に使っていたのだ。

   天安門広場に着いたのが午後7時すぎだったか。そこで見たのは冒頭に記した光景だった。広場で何か特別の様子や新しいビラなどがないか歩き回り、何人か学生に声をかけた。メモ帳に残っていた学生の一人は遼寧省から一昨日(6月1日)に仲間と来たと答えた。省内の鉱業専門学校に在学中と言い、当時広場に残っていたのは地方学生が多かったということを裏付けた。

   この日の午後、一度目に広場に来た際にちょっとした事件に遭遇した。天安門広場の周辺の要所、要所にスピーカーがある。長安街沿いに立つ装飾のついた街路灯にもスピーカーが備えられていた。それらを通じて当局は戒厳令の公布など、重要な情報をかなり大きなボリュームで流していた。

   そのスピーカーのケーブルを、労働者風の2、3人の男たちが次々とナイフで切断した。「公共物はなるべく破壊しない」という広場で暗黙の了解となっていたモラルが徐々に崩れつつある、そんな風に感じた。

   ラジオニュースが何度か「天安門広場には決して近づかないように」と流していたのも、気にはなっていた。(次回「下」に続く)

加藤千洋さん

加藤千洋(かとう・ちひろ)
1947(昭和22)年東京生まれ。平安女学院大学客員教授。東京外国語大学卒。1972年朝日新聞社に入社。社会部、AERA編集部記者、論説委員、外報部長などを経て編集委員。この間、北京、バンコク、ワシントンなどに駐在。一連の中国報道で1999年度ボーン上田記念国際記者賞を受賞。2004年4月から4年半、「報道ステーション」(テレビ朝日系)初代コメンテーターを担当。2010年4月から、同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授。2018年4月から現職。
主な著訳書に『北京&東京 報道をコラムで』(朝日新聞社)、『胡同の記憶 北京夢華録』(岩波現代文庫)、『鄧小平 政治的伝記』(岩波現代文庫)など。
日中文化交流協会常任委員、日本ペンクラブ会員、日本記者クラブ会員。

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