2019年 10月 20日 (日)

加藤千洋の「天安門クロニクル」(14)
6・4へのカウントダウン(下)「万里を探せ」

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   戒厳部隊との激突シナリオをなんとか回避できないか。残された数少ない選択肢の一つとして戒厳後に浮上したアイデアがあった。

   学生が求めた「民主と法制」をまさに実践する狙いで、憲法で「国家の最高権力機関」と位置づけられる全国人民代表大会(全人代)の緊急会議を招集し、平和的な事態収拾案を話し合え、というものだった。

  • 代表3000人一堂に会す全人代のマンモス会議風景。ひな壇(写真)と向かい合う形で代表が着席する(1985年3月の全人代開幕式で)
    代表3000人一堂に会す全人代のマンモス会議風景。ひな壇(写真)と向かい合う形で代表が着席する(1985年3月の全人代開幕式で)
  • 広場のトラックには「改革するには趙紫陽と万里を探せ」という趣旨の文句が書かれていた
    広場のトラックには「改革するには趙紫陽と万里を探せ」という趣旨の文句が書かれていた

浮上した全人代での収拾案

   最初の提案者が誰かは承知していないが、戒厳令の施行前から動きが出ていた。私が初めて耳にしたのは戒厳後2日目の5月21日、全人代の常務委員57人が連名で緊急会議の開催を求めた時だった。それをきっかけに広場の学生からも期待の声が強まった。

   呼びかけには新聞法制定でも先頭に立った胡績偉、それに秦川という2人の元人民日報社長や改革開放政策のブレーンだった大物エコノミストの馬洪や厲以寧北京大学教授らが名を連ね、インパクトは小さくなかった。

   そして24日、知識人グループのリーダー的存在の厳家其・社会科学院政治学研究所所長や包遵信・同歴史研究所副研究員らが、全人代トップの万里常務委員長らに当てた公開書簡を発表、緊急会議に期待を表明した。

「全国人民代表大会常務委員会は、最高国家権力機関の常設機構であり、それは国務院が制定した、憲法、法律に抵触する行政法規、決定、命令を取り消す権限を有しております。われわれは、万里委員長が北京に戻った後、直ちに全国人民代表大会常務委員会緊急会議を招集し、目下の中国の深刻な問題を解決されるよう呼びかけます」(『チャイナ・クライシス重要文献第2巻』)

   現代中国の政治制度は三権分立を原則とした日本や韓国のそれと大きく異なるので少し補足説明が必要だろう。

   全人代は日本でいえば国会に相当する立法機関だが、「最高権力機関」とされるだけに行政と司法、つまり国務院(政府)と最高人民法院・最高人民検察院は全人代に従属する。

   ただし憲法前文で「共産党の指導」をうたう政治体制下では、全人代の上に「党」が君臨することは忘れてはいけない。80年代半ばの北京特派員当時、全人代は「ゴム判議会」だと揶揄されていた。「党」の決定事項を拍手で承認するだけの議会だというのである。

   定例会議は毎年春に一回、全国から約3000人の代表が北京に集合し、人民大会堂で開かれる。民族衣装の少数民族代表や模範労働の農民、労働者らが目立ち、これで議会機能が果たせるかと取材のたびに疑問を感じたものだ。

   この大会以外の期間に開かれるのが全人代常務委員会だ。大会で互選された200人前後の代表からなる常設機関で、2か月に一回程度のペースで定例会議を開く。実質的には常務委員会が立法機関としての機能を果たしている。従って全人代招集のアピールは、この常務委員会を緊急に開けというものだった。

   80年代半ば以降、胡耀邦―趙紫陽体制下で検討が始まった政治体制改革では全人代の権限強化もテーマの一つではあった。

   ところで全人代のトップの万里常務委員長(党政治局員)は5月10日に次回の全人代常務委員会議を6月10日に開会すると決めた後、12日からカナダ・バンクーバーを皮切りに21日間の北米訪問に出発、北京に不在だった。

   旅の途中の16日、滞在先のカナダ・トロントで国内情勢について発言し、それを『人民日報』が報じた。

「現在、学生・知識人・労働者たちが民主を要求し、腐敗に反対しているのは、改革を加速させたいという愛国的な行動だ」「学生は民主を要求し、政府の一部の役人らの汚職腐敗に反対するとデモしている。記者は報道の自由を要求する。これらは近年、党と政府がどうやって解決すべきか研究している課題であり、我々は社会主義民主、社会主義法制を強化すべきだし、報道をもっと自由で開放的なものにする必要がある」

   この発言を知った学生らから「万里待望論」が盛り上がり、デモでは「万里を探せ!!」など早期帰国を求めるスローガンが叫ばれた。

   この「万里を探せ」という表現には、趙紫陽と並ぶ改革積極派の指導者として万里が学生たちに認識されていたことをうかがえる。

   というのは1970年代末、鄧小平のリーダーシップで共産党の路線は大きく舵が切られ、今日につながる改革開放政策が始まった。そのころ農民らの間で流行した戯れうたがあった。こんな文句だ――。

「食糧が欲しけりゃ趙紫陽を、米が食べたきゃ万里を探せ!!」

   当時、趙紫陽は四川省、万里は安徽省の党トップだった。2人は後に正式に採用される大胆な農業政策を先取りし、人民公社制度の集団労働の中に埋没していた農民の積極性を引き出し、食糧の大幅増産に導いたのだ。

外遊から帰国、「幽閉」された万里

   趙紫陽が事実上失脚し、長老と保守派勢力が手を結ぶ政治状況下では、期待できる数少ない改革派指導者として、万里の存在がクローズアップされた。

   すでに公開の場に姿を見せなくなっていた趙紫陽も21日、カナダ訪問中の万里に個人名で打電し、早期帰国と全人代の会議開催を要請したという。(岩波講座『現代中国』別巻(1))

   外遊は打ち切られた。23日、ブッシュ(父)大統領と会見後、「健康問題」で帰国すると表明。25日未明、帰国した先は、北京ではなく、上海だった。

   そのまま宿舎に閉じこもり(閉じ込められた、と言った方がいいか)、上海市党書記で後に趙紫陽の後任総書記となる江沢民らが説得に当たった。27日、万里は書面談話を発表する。

「私は一貫して学生諸君が心から民主の促進、汚職腐敗の根絶を願っている愛国的熱情はなかなかできないことだと認識し、党と政府はこれを肯定する。(中略)ただし、目下の事態は学生諸君が願うのとは逆の方向に進んでいる。ごくごく少数の政治的陰謀家が学生運動を利用して動乱を企て、北京と全国の正常な社会、生産、仕事、教育秩序に混乱をもたらしている。彼らの目的は共産党の指導を覆して社会制度を変えようとするもので、憲法に著しく違反した行動なのである」

   全人代に与えられた権能で「戒厳令取り消し」と「李鵬首相罷免」は可能である――こう考えた学生たちの一縷の望みあえなく消え去った。(次回は「政治空間としての天安門」上)

加藤千洋さん

加藤千洋(かとう・ちひろ)
1947(昭和22)年東京生まれ。平安女学院大学客員教授。東京外国語大学卒。1972年朝日新聞社に入社。社会部、AERA編集部記者、論説委員、外報部長などを経て編集委員。この間、北京、バンコク、ワシントンなどに駐在。一連の中国報道で1999年度ボーン上田記念国際記者賞を受賞。2004年4月から4年半、「報道ステーション」(テレビ朝日系)初代コメンテーターを担当。2010年4月から、同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授。2018年4月から現職。
主な著訳書に『北京&東京 報道をコラムで』(朝日新聞社)、『胡同の記憶 北京夢華録』(岩波現代文庫)、『鄧小平 政治的伝記』(岩波現代文庫)など。
日中文化交流協会常任委員、日本ペンクラブ会員、日本記者クラブ会員。

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