2019年 8月 17日 (土)

加藤千洋の「天安門クロニクル」(15)
政治空間としての天安門 (下)「四・五」から「六・四」まで

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   方向性を見失い、エネルギーも尽きかけていたように見えた学生らの運動を再び勢いづけたカンフル剤は「民主の女神像」のほかにもあった。

  • 97年7月の香港返還祝賀行事も天安門広場で開かれた。「香港返還」ではなく「香港回帰」という表現が用いられた
    97年7月の香港返還祝賀行事も天安門広場で開かれた。「香港返還」ではなく「香港回帰」という表現が用いられた
  • 美術家は帰国後に起きた天安門事件への怒りと悲しみを巨大な絵にぶつけた。1989年夏、大阪で
    美術家は帰国後に起きた天安門事件への怒りと悲しみを巨大な絵にぶつけた。1989年夏、大阪で

香港から届いた義捐金

   一つは香港市民からの物心両面の支援だった。

   当時の香港はまだ英国の統治下にあったが、1970年代末から返還問題が中英両国間で始まり、84年末には「一国二制度方式で97年7月1日に中国が主権を回復する」という内容の共同声明が発表されていた。

   「一国二制度」とは、一つの国に社会主義と資本主義の二つの制度を共存させる方式だ。わかりやすいのは鄧小平が口にした「少なくとも50年間は香港の社会制度は変える必要がない」という考え方である。

   ただ返還合意後、資産家の海外移住が急増するなど香港社会は微妙な過渡期にあった。そこに飛び込んできた「首都北京に戒厳令」というニュースは市民に衝撃を与えた。

   「今日の北京は、明日の香港か」――こうした危惧の念を抱いた市民が多かったのか、戒厳令実施翌日の5月21日の日曜日、香港中心部を百万人デモの人波が埋め尽くした。当時の人口は600万人だったから、6人に1人の市民が街に出たことになる。

   次の日曜日の28日、香港競馬場で有名ミュージシャンらが顔をそろえた北京支援コンサートが開かれ、多額の義捐金が集まった。

   一説に「65万米ドル、200万香港ドル」という資金と大量の物資が天安門広場に届くと、真新しい青色のスマートなテントが広場を埋めるなど、しばし学生の表情に明るさが戻ったように感じられた。

   5月末、大阪から中国人の友人で美術家Eがやってきた。連絡が取れて北京で会った。日本で友人や知人に呼びかけて集めた義捐金を学生に渡すことが目的だと言ったが、それ以上に彼を突き動かしたのは「広場を一目見ておきたかった」という強い気持ちだったのではないか。

   前にも触れたが、文化大革命末期の1976年4月4日夜から5日にかけ、広場で自然発生的な市民の抗議デモが発生した。89年の「六・四」に先駆ける「四・五」運動とも呼ばれる第1次天安門事件である。

   引き金は「人民の宰相」と慕われた周恩来首相の死(76年1月)だった。4月5日は故人を追悼する伝統の「清明節」に当たり、周を偲んで人民英雄記念碑に献花する市民が詰めかけた。やがて病身の周首相をいたぶって死に追いやった毛沢東夫人の江青ら「四人組」に対する批判の声が上がり、大規模デモにまで発展したのである。その数は30万とも50万ともいわれる。

   その大群衆の中にEもいた。おまけに人民英雄記念碑の近くまで行って、文革派が握る当局を批判する内容の自作の詩を詠みあげたことから、治安部隊に拘束されてしまう。

   この事件は「反革命的」と規定されたが、文革終息後に「大衆の自発的な革命的行動」と逆転評価され、Eも名誉回復された。そうした体験の持ち主であるゆえに、「海の向こうで、いてもたってもいられなかった」というのが本当のところだろう。

   Eは腕章を巻いた学生の案内で人民英雄記念碑の台座にあった運動本部に導かれ、義捐金を手渡しできたという。幸運というべきか、広場が武力鎮圧される直前には彼は大阪へ引き揚げていった。

   5月末の時点で、もう一つ学生に活気を吹き込むことがあった。それは台湾のシンガーソングライター、侯徳健が広場に姿を見せたことである。

   彼は自身のルーツを求めて1983年に大陸に移り住み、テレビに出演するなど人気歌手になっていた。

   最大のヒット曲「龍之伝人(龍を伝える子どもたち)」の歌詞――「力強い龍よ目を覚ませ」「今から永遠に目を覚ませ」――は大陸でも若者なら誰もが口ずさめるほどだった。

   そんなポップスターがギターを抱えて輪に加わったものだから、学生気分が刺激されたのか、広場ではロックのライブ演奏やダンスの輪が広がるなど、「政治空間」「抵抗の場」が変じて「祭りの場」といった趣になる夜もあった。

   もう一人、劉暁波の広場での存在感も大きかったように思う。あの2010年度のノーベル平和賞の受賞者である。授賞式は中国で入獄中のために出席できず、2017年7月に末期がんを患っていることが公表されて刑務所外の病院に移されたが、間もなく他界した。

   89年当時は北京師範大学中国文学部の講師で、米コロンビア大学で客員研究員をつとめていた。彼も「いてもたってもいられなくなった」一人で、4月26日にニューヨーク発の便に乗ったが、中継地の成田空港で北京から到着した乗客から「人民日報が『動乱』と規定した。危険だから帰らない方がいい」とアドバイスされ、一時は米国へ引き返すことも考えた。

   その時、空港アナウンスが北京行きの便の搭乗開始を告げた。「生きるか死ぬか、とにかく行ってみよう」と飛び乗ったのは北京行きの便だった。その後の人生を分けた選択をドキュメンタリー映画『天安門』で語っている。

   当時の侯徳健も劉暁波も30歳を超えており、いわば学生たちの「兄貴分」だった。撤退か残留かの堂々めぐりの議論が続き、内紛に明け暮れる運動の実態を知るにつけ、歯がゆく感じたのだろうか、6月2日の段階で侯と劉は仲間2人とともに「ハンスト」に立ち上がった。

   この行動は政府当局に対する抗議というよりは、多分に学生諸君の奮起を求めるというショック療法だったに違いない。そして2人は6月4日未明という土壇場で、極めて重要な役割を果たすことになる。

   すでに戒厳部隊は天安門広場に到達していた。徐々に接近する完全装備の兵士に向かって侯と劉が歩み寄る。将校が前に出てきた。「撤退するので時間の余裕を与えてくれ」と2人が申し入れると、将校は上官に報告しに行った。間もなく戻ってくると、「求めに応じる」と答えた。

   2人は急いで人民英雄記念碑あたりに集まっていた学生らに伝えたが、この期に及んでも意見はまとまらなかった。だが広場の東南方面から撤退する流れが自然と生まれ、市民や少数の外国メディアも含めて広場にとどまっていた全員が撤退した。すでに東の空が白む時間になっていた。(次回は「ある米人ジャーナリストと柴玲」上)

加藤千洋さん

加藤千洋(かとう・ちひろ)
1947(昭和22)年東京生まれ。平安女学院大学客員教授。東京外国語大学卒。1972年朝日新聞社に入社。社会部、AERA編集部記者、論説委員、外報部長などを経て編集委員。この間、北京、バンコク、ワシントンなどに駐在。一連の中国報道で1999年度ボーン上田記念国際記者賞を受賞。2004年4月から4年半、「報道ステーション」(テレビ朝日系)初代コメンテーターを担当。2010年4月から、同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授。2018年4月から現職。
主な著訳書に『北京&東京 報道をコラムで』(朝日新聞社)、『胡同の記憶 北京夢華録』(岩波現代文庫)、『鄧小平 政治的伝記』(岩波現代文庫)など。
日中文化交流協会常任委員、日本ペンクラブ会員、日本記者クラブ会員。

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