2019年 11月 18日 (月)

加藤千洋の「天安門クロニクル」(17)
国内に留まるか、国外脱出か(下) 「第二の忠誠」を貫いたジャーナリスト

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   実はニューヨークの集会で一番会いたかったのは劉賓雁だった。『北京之春』編集部ではゆっくりと話が出来なかったので、翌日、宿泊先のマンハッタンのホテルを訪ねる約束をした。

  • 外国メディアの記者たちと談笑する劉賓雁(中央の背広姿)。1985年1月、北京の中華全国新聞工作者協会の応接室で
    外国メディアの記者たちと談笑する劉賓雁(中央の背広姿)。1985年1月、北京の中華全国新聞工作者協会の応接室で
  • ニューヨークの街角で別れた劉賓雁、1995年1月)
    ニューヨークの街角で別れた劉賓雁、1995年1月)

劉賓雁との出会い

   劉と初めて出会ったのは私が1回目の北京特派員として着任して間もない1985年1月だった。ニューヨークで再会するちょうど10年前だ。

   中華全国新聞工作者協会(しいて言えば日本新聞協会に相当)が主宰していた外国メディアとの懇談会に、我々の要望に応えてゲストとして来てくれたのだ。当時の劉は「時の人」だった。

   前年12月末に北京で久しぶりに開かれた中国作家協会の総会は、いまだに「画期的な大会だった」と関係者の間で語り継がれている。共産党と政府が「作家の創作の自由を認める」との方針を初めて示したからだ。大会で圧倒的な支持を得て副主席の一人に選ばれたのが劉だった。主席には長老の巴金が就任したが、出席者の自由投票で最多の票を得たのは劉だったという。

   一党独裁体制下の中国では中国作家協会が文学界の唯一の公認全国組織だ。これに所属が認められれば一定の経済的保障が得られ、安定した創作環境を確保できる。だが運営から人事面などあらゆる面で党の意向を無視できず、すっぽり党の傘下にある団体と言えよう。

   それだけに時に党の方針を批判し、社会主義体制下の暗部を描いたことで何度か処分を受けてきた劉が副主席に、しかもトップ当選したことは、まさに異例中の異例の出来事と言えた。

   思い思いにソファーに座り、自由な雰囲気で行われた懇談会で劉は自信にあふれ、創作や報道のあり方に熱弁をふるった。

「タブーがあるかって? 憲法の枠内なら何を書いてもよいと思う。言論の自由は人民自らが作りだすものだ」

   当時書いた記事を読み返すと、こんな発言をしている。

   「気骨あるジャーナリストが現れたな」という印象だったが、よほどの愛煙家なのか、一時もタバコを手放さなかったことも強く記憶に残る。

   党の監督下にある作家協会が、この時、なぜ極めて解放的な大会運営ができたのだろうか――。

   それは党トップの総書記に胡耀邦が座り、イデオロギー担当の責任者が、胡耀邦の子飼いの部下で、天安門事件で趙紫陽とともに失脚した胡啓立だったからではないか。2人は走り出していた改革開放路線にさらに弾みをつけるには、社会に「思想解放の風」を一層吹き込むことが必要だと考えていた。

   そして党内保守派からの批判を招く可能性大のルポルタージュ作品を劉賓雁がかなり自由に書け、そして発表できたのは、背後に胡耀邦の後ろ盾があったからではないか。

   ニューヨークでインタビューの機会を得た時、ずっと気になっていたこの点から質問した。

   「もちろん胡耀邦は知っているが、それほど親しい関係ではないんだ。まして彼が私を使って書かせたというようなことは、まったくない」と断言した。

   胡耀邦と劉の最初の接点は、劉が党の青年組織の共青団の活動を始めた1950年代にさかのぼる。51年に共青団機関紙『中国青年報』の記者になるが、その当時の共青団トップは胡だった。

   そして劉は1956年、代表作に数えられる『橋梁工事現場にて』と『本紙内部ニュース』を相次ぎ発表。どちらも党や政府幹部の腐敗汚職を暴き、官僚主義を批判する作品だけに、国内で大きな反響を巻き起こした。

   しかし、翌57年に毛沢東が発動した「反右派闘争」では、「党を誹謗した右派分子」として批判される。この激しい政治運動では全国でインテリ層を中心に55万人が「右派」と認定され、うち半数以上が公職を失い、農村での強制労働を強いられている。

   それに続く文化大革命でも処分は続き、文革が終息した後の79年までペンを持つ自由を奪われている。こうした苦難の道のりは『劉賓雁自伝』(1991年、みすず書房)に詳述されているが、同書巻末の「著作目録」を見ると1958年から78年まで20年間が、まったくの空白になっている。

   79年に名誉回復され、『人民日報』記者の肩書を得て間もなく、再び話題作『人と妖怪の間』を発表する。

   中国東北部のある県の公営燃料会社の女性幹部の巨額汚職事件を取り上げたルポだが、これを読んで私には忘れられない一節がある。

「(県党委員会議事録を見ると)あらゆる問題が討議されている。募兵、計画出産、刑事犯の量刑、種まきの計画......ただ一つ党自身の問題についてほとんど議論がない。共産党はすべてを管理する。ただ共産党だけは管理しない」

民主化運動に悲観的な見方

   ニューヨークで話をした際にもう一つ聞きたかったのは、天安門事件とそこに至る学生たちの民主化要求運動の評価、そして今後の中国の政治改革の可能性についてだった。

「天安門の悲劇的な結末はもちろん当局に責任があるが、学生たちはどうなのか。彼らは現実の中国社会を深く理解しておらず、経験も浅かった。他にも方法があったと思うが、結局、出口のない徹底抗戦の道を選んでしまった」
「事件後の民主人士への迫害はすさまじいものがあった。再び運動を立ち上げる体制をつくることは容易ではないだろう。党が政治改革に積極的に取り組む可能性は、残念ながら見えてこない」

   民主化運動について、そして中国政治の変革の可能性についても、どちらかと言えば消極的、悲観的な見方を示した。

   中国作家協会の副主席に選ばれ、自信にあふれた姿を外国メディアの前に見せた1985年、劉はもう一つの代表作『第二の忠誠』を世に問うている。

   このルポルタージュ作品の主題は、時の権力者の誤りに直言した2人の人物を取り上げ、党への「第一の忠誠」よりも、自分の良心と人民の利益への「第二の忠誠」がより大事だと説いたものである。

   この作品は鄧小平の不興を買ったとされ、2年後の1986年末に起きた学生運動で胡耀邦が失脚したことは前述したが、後ろ盾を失った劉も「ブルジョア自由化」を煽ったとして二度目の除名処分を受けることになる。

   コーヒーとサンドイッチをつまみながら2時間余り語り合い、マンハッタンのビル街でプリンストンに戻る劉と別れた。閑静な大学街に夫人と腰を落ち着け、当時は「中国学舎」という名義で中国情勢の分析などのニューズレターを発行する活動を続けていた。しかし革ジャンパーにショルダーバックのいで立ちは、いかにも「記者」らしい風情だった。

   10年後の2005年12月、ニュージャージー州の病院で死去した。ガンを患っているとわかった晩年、中国指導部に帰国を認めるよう手紙を送ったが、かなわなかった。「第二の忠誠」を貫いた80年の生涯だった。(次回は「再考6月4日」上)

加藤千洋さん

加藤千洋(かとう・ちひろ)
1947(昭和22)年東京生まれ。平安女学院大学客員教授。東京外国語大学卒。1972年朝日新聞社に入社。社会部、AERA編集部記者、論説委員、外報部長などを経て編集委員。この間、北京、バンコク、ワシントンなどに駐在。一連の中国報道で1999年度ボーン上田記念国際記者賞を受賞。2004年4月から4年半、「報道ステーション」(テレビ朝日系)初代コメンテーターを担当。2010年4月から、同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科教授。2018年4月から現職。
主な著訳書に『北京&東京 報道をコラムで』(朝日新聞社)、『胡同の記憶 北京夢華録』(岩波現代文庫)、『鄧小平 政治的伝記』(岩波現代文庫)など。
日中文化交流協会常任委員、日本ペンクラブ会員、日本記者クラブ会員。

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