2019年 7月 23日 (火)

加藤千洋の「天安門クロニクル」(18)
再考「流血の夜」 (上)いまだ疑念は拭えず

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   30回目の「6・4」の記念日が近づき、連載も終盤を迎えた。そこで6月3日夜から4日朝にかけての「流血の夜」を、いまだに疑問が完全に払拭されていない犠牲者数や天安門広場では本当に死者が無かったのか、などを中心に再考しておきたい。

  • 陳希同・北京市長の1989年6月30日付報告書
    陳希同・北京市長の1989年6月30日付報告書
  • 1989年6月5日付の朝日、読売、毎日の各紙朝刊1面
    1989年6月5日付の朝日、読売、毎日の各紙朝刊1面

悪名高き報道官の死

   新聞の不思議の一つは、時として派手な見出しの大ニュースより、片隅のベタ記事が意外に印象に残ることである。昨年末、朝日新聞に載った北京発の10行余りの死亡記事もそれだった。

   90歳の高齢で亡くなった袁木の名は、天安門事件の取材を経験した者にとっては30年の時が流れても忘れられないし、その独特の風貌もすぐに脳裏に蘇ってくる。

   当時の肩書は国務院(政府)の報道官だった。民主化要求運動を「動乱」と断じた党と政府の立場を代表してメディアに登場。学生代表との対話の場でも抗議や要求を、薄笑いを浮かべてはぐらかした。事件後は犠牲者数を過少に発表したとして学生のみならず市民の間でも悪名を高めた党幹部である。

   政府スポークスマンという重要な役を担い、広場制圧2日後の6日に記者会見し、初めて政府の見解を明らかにした。

・我々は暴乱に対して勝利した
・人民解放軍将兵の負傷者5000余人、民間人(破壊行為を働いた暴徒と真相を知らない野次馬ら)の負傷者2000余人
初歩的統計で死者は300人近く、学生の死者はわずか23名である
天安門広場での死者は無かった

   以上の数字は、事態のすべて目撃したわけでない私にも、そして市民の多くも容易に受け入れ難い「公式見解」だった。

   案の定、そうした数はその後何度か差し替えられる。

   6月19日、党政治局拡大会議で北京市トップの李錫銘・党委書記が主要な病院、大学、軍、警察などの報告を「二重三重に確認した」という公式集計を明らかにした。

死者総数241人
・負傷者約7000人(5000人は戒厳部隊将兵ら、2000人は北京居住者)
・死者内訳は戒厳部隊の将兵23人、一般人218人(北京居住者、上京者、学生、暴徒)
一般人死者218人には北京の大学生36人、北京以外からの上京者15人を含む。学生死者は20校にまたがり、中国人民大6人、清華大と北京科学技術大が各3人、北京大など7校が各2人など。(『天安門文書』429~430頁)

   さらに6月30日付で陳希同・北京市長が「動乱制止と反革命暴乱鎮圧に関する状況報告」を全人代常務会議に提出。これは私も手元に残していたので改めて読み直した。

   全文14頁の前半は7週間の運動(報告書の表現は「動乱」)の経過を追い、後半は天安門広場を目指した戒厳部隊が、各地で学生・市民(報告書では「暴徒」)に進軍を妨げられ、いかに残酷な仕打ちにあったかを縷々述べる。そして「やむにやまれない状況下で発砲に至った」という点を強調している。

   被害状況も戒厳部隊側のそれが前面に打ち出される。

・破壊、焼き打ちされた戒厳軍、警察、公共交通等の車両は1280台余り
・内訳は軍用トラック1000余台、装甲車60余台、警察車両30余台、公共バス・トロリーバス70余台、その他の自動車70余台
・戒厳軍兵士、武装警察官、警察官6000余人が負傷し、死者は数十人
他方で「非軍人の死傷者」は次のような数字を示した。
・負傷者3000余人
死者200余人、うち大学生36人

   北京市のトップ2人が示した死者数は依然として300人以下で、大学生の死者数は袁木が発表した「23人」から「36人」に若干増えたが、いまも私は「そんなものだろうか」という疑念がぬぐえない。

   最終的に当局が示した犠牲者数は「319人」である。これは89年9月17日、李鵬首相が日中友好議員連盟訪中団の伊東正義団長らに対し、初めて明らかにした数字である。

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