ミニッツ・シンキング

フィリアとソフィア

朝寝坊の数学オタク

デカルトって、ニートだった?

17世紀、ローマ教皇庁がコペルニクスの地動説を禁じたころ。20歳でフランスの大学を卒業したデカルトは、書を捨て、2年間を気ままに過ごし、オランダで1年ほど軍務につきます。
さらにドイツでも入隊しますが、半年後、村の炉部屋にこもって何と「自分探し」・・・朝寝のしほうだい。その後ベネツィアやローマを見て歩き、パリで過ごした後、オランダに隠棲。 ここで本格的に哲学始動、32歳で執筆を始めます。

亡命中のトーマス・ホッブズ、ピエール・ガッサンディ
などの哲学者や学者たちと交友を深めました。

インタビュー: 青春をかけた学び

インタビュアー: 大学を卒業したとき、本を捨てられたのですよね?
デカルト: ええ。もう先生方から教えていただく年でもないですから。思い切って、教科書とか参考書とか、全部すっぱり。
インタビュアー: もう学ぶべきことはない、と?
デカルト: いえ、そういうことじゃなくて、自分自身で考えるとか、世の中から学ぶとか…世間に出ないと見つけられない知識って、実際、山ほどあるでしょ。それこそ膨大な書物みたいなものじゃないですか。
これを追及してやる、僕の残りの青春をかけて学び取るぞ、と決心したんです。いわば決意表明ですよ。(続く)

インタビュー: 青春をかけた学び

インタビュアー: それで、軍隊に?
デカルト: えぇ、まあ、その前に少し宮廷をのぞいたりしましたけど…
インタビュアー: オランダは休戦協定中でしたよね。戦闘は無かったんじゃないですか?
入隊は、実は兵器開発の科学者たちとの交流が目的、というウワサもありますが。
デカルト: そのへんは、ご想像に任せます(笑)。宮廷も軍隊も、いろんな性格や条件の方がいらっしゃるでしょ。そんな皆さんと出会えたのは幸せでしたよ。
こういう経験が、僕の哲学の肥やしになったな、と思います。
インタビュアー: ありがとうございました。(カメラに)『方法序説』執筆中のデカルトさんでした。

確実なものを求めて

デカルトは、確実なものをみつけるために「一切を疑うべし」と、先入観を全てリセットします。そして「私は考える」という事実が絶対に、はずせないことに気づきます。
その結論が・・・
  自分を含め、世界の全てがいつわりだとしても、
  まさにそのように疑っている意識作用が、
  確実ならば、そのように意識している自分だけは、
  存在を疑い得ない。

ここに哲学史上最も有名な、ことばのひとつが誕生しました。

これを、「方法的懐疑」といいます。

「我思う、ゆえに我あり」 デカルト

デカルト41歳で刊行した『方法序説』に書かれたことばです。
当時、「哲学書はラテン語」がトレンド。しかし彼は、フランス語で書いたのです。初のフランス語哲学書・・・これが、ヨーロッパに新しい思想的な地平を開いたといわれています。
本の中で彼は、アリストテレスの頃から変わっていない「真理の探究方法」を見直し、近代的な4つの方法にまとめました。

・真である、とはっきり証明できるもの以外受け入れない(明証)
・問題は、出来るだけ小さい部分に分ける(分析)
・いちばん単純なものから始めて、複雑なものに達する(総合)
・見落としがないか、全てを見直す(枚挙 / 吟味)

季節特性のボーダーレス化

オランダでは「無神論を広める思想家」と非難され、哲学書の出版が禁止されたデカルト。スウェーデン女王のクリスティーナに招かれて、初冬のストックホルムへと移ります。
しかし寒さがこたえたのか、あるいは、女王のための朝5時からの講義が、寝坊の身にはつらすぎたのか、彼は翌年、53歳の生涯を閉じました。
「私は考える」・・・この事実から出発し、自然科学を基本に構築されたデカルト哲学。
ここに近代思想がはじまり、今後この上に膨大な議論が積み重ねられていくのです。
さて、次章の主人公は、デカルトとは真逆な性格。世の中も大変化。お楽しみに!

デカルト自身は神の存在を信じていたと思われますが、
哲学が神学から自立していく道筋をつけていったという意味で、
当時は「無神論」という批判を受ける危険性があった時代なのです。
朝寝坊の数学オタク |
もどる すすむ 前へ 次へ
Copyright (c) Kamakura Women's University. × J-CAST. Inc. 2011. All rights reserved.