イタリア独立のきっかけ...になったかもしれないオペラ

   先週や先々週とりあげた、ナポレオン戦争を題材とした音楽は、いずれも音楽家が意図して書いた愛国的な音楽でした。今週の1曲は、結果として、愛国運動を盛り上げるだけでなく、国そのものを創ってしまった、といわれているオペラです。イタリアを代表する作曲家、ジュゼッペ・ヴェルディのオペラ、「ナブッコ」です。

   この作品は、ヴェルディにとって3作目にあたり、出世作となったオペラです。妻と子供2人、という「自分以外のすべての家族」を病気で亡くして絶望的に落ち込んでいた...というより「ひきこもっていた」駆け出しの作曲家ヴェルディに、オペラの名門、ミラノ・スカラ座の当時の支配人メレッリが持ちかけたアイデアをもとに作曲されたものでした。

「祖国統一の英雄」とされたヴェルディは旧1000リラ札にも登場した
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ジュゼッペ・ヴェルデ「ナブッコ」

   オペラの物語は、旧約聖書の「バビロン捕囚」を下敷きにしています。古代イスラエル人たちが、バビロニアの王、ネブカドネザル2世によって、強制移住させられたと記されているもので、実際の史実では、この事件により、エルサレムの地を離れても「ユダヤ人」という人種を守り通そうとする宗教的・民族的アイデンティティが出来上がったといわれていますし、バビロニアは、ペルシャによって滅ぼされるまで存在し、ユダヤ系の人々は、それまでエルサレムの地には戻れなかった、というのが真相です。

   しかし、オペラでは、自由に物語が作り変えられ、ネブカドネザル2世...イタリア語で「ナブコノドゾール」という王様がユダヤの神になぜか帰依してしまい、自ら積極的に捕虜を解放して、めでたし、めでたし...という歴史的事実から見れば、正反対で、強引なハッピーエンドで終わります。

   歴史の事実をいわば勝手に改変した台本に、失意のどん底にある若手作曲家が曲をつけたわけですから、このオペラが成功するかは、まったく未知数でした。

歴史的事実とは正反対の物語に

   ところが、このオペラは、1842年のミラノでの初演の時から大ヒット、前例のない、上演回数を記録し、しかもイタリアという国を創り上げたオペラ、とまでいわれ、現在でも第3幕ヘブライ人の合唱、「行け、わが想いよ、黄金の翼に乗って」は、第2のイタリア国歌、とされています。映画「ゴッドファーザー」の中でこの曲が演奏されるシーンがあるぐらい、イタリアの人々のシンボルとなっています。

   なぜ、ただのオペラが、そこまで熱狂的に人々に歓迎されたか? それは、この時代の歴史が影響したのでした。

   19世紀初頭まで、イタリア半島には無数の小国家と教皇領が乱立し、特に北イタリアは、アルプスの北の強力な帝国、ハプスブルグ家のオーストリアに占領されている状態が長く続いていました。ヨーロッパ北部では、市民革命と共に続々「国民国家」が誕生していましたから、イタリア半島でもイタリア人による国家を成立させようとする独立運動「リソルジメント運動」が、起きていました。

   しかし、もともと、団結や連帯が苦手なイタリアの気風や、イタリア各地を事実上の占領下においていたオーストリア、フランス、スペインなどの近隣諸外国の力は強大で、運動は紆余曲折があり、統一までは長い道のりでした。実際に北イタリアのサルデーニャ王国が他国を併合してゆく、という形で、曲がりなりにも「イタリア王国」として、統一されるのは、1861年のことでした。

当時のイタリア半島は「外国勢力に占領されている状態」

   オペラ「ナブッコ」――初演時の題名は「ナブコノドゾール」でしたが、あまりにも長いため、途中から「ナブッコ」と省略されて呼ばれるようになりました――のオペラは、上記のように、古代イスラエルの人々が、バビロニアに捕虜や奴隷としてとらわれる物語です。当時のイタリアの人々は、それを、「本来自国領土であるイタリア半島に外国勢力が入って占領されている状態」という自らの境遇に重ね合わせ、第3幕の望郷の合唱、「行け、わが想いよ、黄金の翼に乗って」を、外国勢力を半島から追い出して、「イタリア人のためのイタリアという国家」を成立させる運動のシンボルとして、祭り上げたのです。一説によると、このオペラを見た観客たちが興奮して歌劇場を飛び出し、イタリア統一と外国軍に対する抵抗を示すデモに加わった、とさえ言われています。

   そのほかにも、偶然がありました。サルデーニャ王で、後の初代イタリア王国の王となる人物の名は、ヴィットリオ・エマヌエレ2世、といいました。 Viva Vittorio Emanuele Re d'Italia (イタリア国王ヴィットリオ・エマヌエレ万歳!)という、キャッチフレーズの頭文字が、たまたまV-E-R-D-Iだったために、デモ隊は、外国軍の言論統制を逃れて、「ヴィヴァ・ヴェルディ!」と作曲者を讃えるふりをして、イタリア統一の「本当の」シンボルを讃えた...というものです。独立運動に影響のあった「青年イタリア」のマッツィーニ、イタリア統一の武力面での英雄ガリヴァルディの2人も、ファーストネームがヴェルディとおなじ「ジュゼッペ」だった、というおまけまでありました。

   はたして、イタリアが統一されてみると、ジュゼッペ・ヴェルディは国会議員にもなり、イタリアを代表するオペラ作曲家どころか、「祖国統一の英雄」とされるようになります。その原点が、オペラ「ナブッコ」でした。今では、この話は、イタリアの一部の教科書にも載っています。

敵国オーストリアでの上演が示す、神話の後付け

   ところが、これらの話は、だいぶ、あとから「盛られた話」のようなのです。

   確かに、「ナブッコ」初演のころに、イタリア愛国運動が盛り上がってきたのは事実でしたが、ナブッコはイタリア国内だけでなく、あろうことかその「敵国」オーストリアの首都ウィーンでも、すぐそのあと上演されています。その時の指揮者はヴェルディ自身でした。政治的意図があったなら、そんな大胆な試みをするはずもなく、ただ、それは、作曲の依頼者メレッリの指示に従ったからだったといわれています。メレッリは、オーストリアの劇場の支配人でもあったのです。オペラはやっぱり金持ち階級の娯楽でしたから、「支配層」に近いところの人々が観客に多かった...つまり、イタリア国内でも、「敵国軍関係者」がお客さんだった可能性が高く、そんなところで、独立運動を仕掛けたら、上演禁止の憂き目にあっていたはずです。

   というわけで、オペラ「ナブッコ」がイタリア統一の引き金になった、というのは、オペラの国イタリアならではの「後付け神話」のようです。

   しかし、このオペラにより、地歩を築いたヴェルディの実力は本物で、この後、「リゴレット」「トロヴァトーレ」「椿姫」そして「アイーダ」と、真の意味でイタリアを代表するオペラを発表し、人々に愛される作曲家となってゆくのです。

本田聖嗣

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