ジャズスタンダード「サマータイム」...G・ガーシュウィンの本格オペラ「ポーギーとベス」のアリアが"進化"

   アメリカは、歴史の浅い新しい国だけれども、その分だけ、アメリカン・ドリームがあるといわれます。21世紀の現在では、新しい国とは決して言えなくなってきましたが、そんなアメリカを代表する作曲家、ジョージ・ガーシュウィンの「サマータイム」を今週は取り上げましょう。

サマータイムの楽譜
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ロシアからの移民の子、ジャズもクラシックも「自分の音楽」でなく

   アメリカは移民の国である、といわれますが、ガーシュウィン一家も、ジョージの父の時代に、ロシアから移ってきた一族です。ロシアでは、ゲルショヴィッチと呼ばれたユダヤ系自由民でした。自由民でしたが、その自由の代償として帝政ロシアでは長い兵役の義務があったため、父、モーリス・ゲルショヴィッチは真の自由の国、アメリカにわたってきたのです。一言も英語が話せなかった父は、アメリカ風にガーシュヴィンと名を変え、さまざまな職業を転々としながら、4人の子供に恵まれました。ジョージは、父や兄が好んだガーシュヴィンから、ガーシュウィンと苗字も少し変化させましたが、彼は、ニューヨーク生まれの2世として、生まれながらに大都会の人間だったのです。

   そういう彼にとって、アメリカのオリジナルの音楽といわれるジャズは、南部発祥のもので、距離のある音楽でした。ガーシュウィンの音楽を語るときに「ジャズとクラシックの融合」とよく言われますが、最新のポピュラーソングがヒットし、ミュージカルの新作が次々発表されるエキサイティングなニューヨークの音楽家としては、ヨーロッパの古い音楽であるクラシックも、南部の黒人の悲惨な状況を背景として生まれ出てきたジャズも、双方とも「自分の音楽」ではありませんでした。

商業音楽の先端NYで育ち、兄アイラとブロードウェイに

   彼は、まだ十代の半ばから、ニューヨークの音楽出版社のあつまる「ティン・パン・アレー」とよばれた一角で、オーディオが未発達で、楽譜購入が音楽を買うという行為だった時代、楽譜店のピアノ弾きとしてアルバイトをしました。ヒットソングをその場でお客のために弾いて聞かせるわけです。そんなバイトつながりで、レヴューやミュージカルの稽古用伴奏ピアニストも引き受けたので、かれは若くして「商業音楽がどのように作られるか」を見ることが出来たのでした。もともと、旋律を作ることに天性の才能があったガーシュウィンは、次第に頭角を現し、作詞家として、兄のアイラ・ガーシュウィンと組んだりして、ブロードウェイに進出します。

   25歳の時、ジャズバンドの指揮者にしてプロデューサー、ポール・ホワイトマンに半ば無理やりの形で書かされたピアノ協奏曲、「ラプソディ・イン・ブルー」が大成功をおさめ、「アメリカのクラシック作曲家」としても、注目されるようになったガーシュウィンですが、作曲家としての活躍場所は、ミュージカルにあったのです。クラシック音楽の演奏会では、自作を指揮したり、ピアノを弾いたりをしましたが、作曲家として、曲を作ることに生きがいを見出していたガーシュウィンは、コンサートホールだけでなく、ミュージカル劇場で、大いに輝いていたのです。

「アメリカ的本格オペラ」に転進、音楽に"南部"を採り入れ

   しかし、そんなガーシュウィンの才能をもっていてさえ、すべての作品がヒットとはかぎりませんでした。1932年、「パードン・ミー・マイ・イングリッシュ(へんな英語でごめんなさい)」というミュージカルが大コケしたため、ガーシュウィンは、「真面目な作品」に取り掛かることを真剣に考え始めます。

   それは、オペラでした。デュボーズ・ヘイワードの小説、「ポーギー」は、アフリカ系アメリカ人...南部の黒人を主役にした作品で、舞台化されていました。その後、オスカー・ハマースタイン2世などによるミュージカル化の案と、ガーシュウィンによるオペラ化の案が持ち上がり、ガーシュウィンは、初めてミュージカルとは一線を画した、「アメリカ人による、アメリカ的題材の本格オペラ」を作ることに意欲を燃やします。彼はこの作品「ポーギーとベス」を「民衆オペラ」と名付けました。サウスカロライナ州チャールストン出身の、ヘイワードの別荘に滞在したとき、近くのフォーリー島というところに、「ガラ人」と呼ばれる、アフリカ文化を最も濃厚に維持している黒人たちを取材することができ、ガーシュウィンの創作意欲は一層盛り上がりました。彼は、大都会NYのソングメーカーだったわけですが、ここで初めて、南部、そして都市部以外のアメリカの人々に直接触れ、それを自分の音楽の中に取り入れてゆくという作業を行ったのです。

クラシックの枠組みの中で初の「アメリカの音楽」

   ボストンでの試験興行のあと、ニューヨークで、このオペラは初演されました。シアター・ギルドとの契約により、オペラの殿堂メトロポリタン歌劇場ではなく、ブロードウェイの劇場での上演でしたが、オペラには不慣れな劇場で、しかもキャストも全員黒人――逆に製作チームは演出も指揮者も全員白人でしたが――というチャレンジングな状況で上演され、大方は好意的に迎えられたものの、彼のそれまでのミュージカルのような大ヒットとはなりませんでした。オペラを期待した人からは、ミュージカル的すぎる、といわれ、ミュージカルに慣れ親しんだ人たちには、本格オペラの構造が理解されませんでした。結局、クラシックと、「アメリカ音楽」双方に情熱を燃やしたガーシュウィンの最も重要な作品でありながら、本格オペラとして上演される機会は少なく、反対に、オープニングの序曲の後にすぐ歌われ、劇中になんども登場するアリア、「サマータイム」がジャズのスタンダードナンバーとして、広くポピュラー歌手たちによって歌われ世界中で親しまれています。

    本来、この曲は、ガーシュウィンが、オペラというクラシック音楽の枠組みの中で、初めて、高らかに「アメリカの音楽」を歌い上げたナンバーだったのです。

本田聖嗣

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