自国フランスで評価されなかったサン=サーンスの代表的オペラ

   チャイコフスキーは、ヨーロッパ辺境の地のロシアの作曲家として、西ヨーロッパにあこがれ、旅をしたり滞在したりしましたが、西ヨーロッパの中心的な国の人なのに、自国での評価が低く、外国への旅行を繰り返した音楽家がいます。フランスの、カミーユ・サン=サーンスです。今日は、彼の代表なオペラ、「サムソンとデリラ」をとりあげましょう。

若き日のサン=サーンスの肖像
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4歳から作曲をはじめた神童

   1835年にパリで生まれたサン=サーンスは、神童と呼ばれるぐらい幼少期から音楽の才能を発揮しました。モーツアルトでさえ5歳の時の作曲が最初とされているのに、サン=サーンスはわずか4歳から作曲をはじめ、ピアノを始めたら目覚ましい上達をしめし、11歳でパリのホールでデビュー、13歳で、パリ国立音楽院に入学します。18歳でパリのサン・メリ教会のオルガニストの職に就き、21歳でボルドーの作曲コンクールで優勝、そして、若干23歳で、ショパンの葬式も行われたパリの壮麗なマドレーヌ教会のオルガニストの地位に上り詰めます。信じられないような音楽の天才であっただけでなく、彼は幼少期から数学や天文学にも興味を示し、それらにおいても才能を発揮します。パリのスコラ・カントルムという新しい音楽学校のピアノ科の教授を引き受けた時はまだ26歳で、生徒たちとあまり年齢が変わらない...といったことさえありました。

   サン=サーンスは、優秀なオルガニストかつピアニストであったので、モーツアルト、ベートーヴェン、ウェーバーやシューマンといった作曲家の作品を高く評価し、演奏しました。現代のクラシックレパートリーでは当たり前となっているこれらドイツの作曲家たちの作品は、当時のフランスでは、驚くべきことにまったく知られていなかったのです。それは、ドイツとフランスという文化的にも言語的にも異文化である両国の距離そのものでした。パリでの彼のこれらの作品の演奏会は、いわれなき批判と批評にさらされたのです。幸いにも、自分のピアノのクラスの生徒たちは、彼の演奏と説明を熱心に聞いてくれ、わずか4年間でしたが、彼は、フランスの未来の音楽家たちに、ドイツ古典派・ロマン派の音楽の魅力を伝えることが出来たのです。

独作曲家の作品を紹介し「外国かぶれの変な音楽家」

   サン=サーンスは、こうして、若いころは、「外国かぶれの、未来的な変な作曲をする音楽家」という扱われ方をしました。当時のフランスはイタリア・オペラなどの上演が多く、フランス独自の音楽作品はあまり演奏されていなかったのです。外国の、主にドイツのクラシック作品の素晴らしさを、演奏を通して痛感していたサン=サーンスは、当時フランスでは誰よりも早く、後にヨーロッパ中を魅了することになるドイツのオペラ作曲家、ワーグナーを評価したりもしています。

   しかし、1870年、サン=サーンスが35歳の時、普仏戦争が勃発します。彼も従軍しました。パリも包囲され、その後のパリ・コミューンの時期はロンドンに避難したりもしました。アンチ・ドイツの国民的雰囲気が形成される中、サン=サーンスは、今まで存在しなかった「フランス独自の音楽」を作り出さなければいけないと考え、「フランス国民音楽協会」という団体を、音楽学校の教え子であったフォーレなどと共同で設立します。同時代のフランスで作られた音楽のみを演奏するこの団体は、19世紀後半の輝かしいフランス近代音楽を生み出す母体となります。

   それでも、サン=サーンスのパリでの評価は変わりませんでした。作品が上演されるたびに、作曲家として無能だとか、不可解な未来の音楽作品だ、と保守的な聴衆におもねるマスコミから厳しく糾弾されたのです。

北アフリカへの転地療養から「さすらいの作曲家」

   もともと健康面に不安を抱えていたサン=サーンスは、寒い北の都市であるパリにいたたまれなくなり、北アフリカのアルジェリアに旅行をします。この「転地療養」は大成功で、彼は以後たびたびこの地を訪れることになります。

   最初のアルジェリア滞在で生み出されたのが、彼のもっとも有名なオペラ「サムソンとデリラ」です。旧約聖書の物語をもとにしたこのオペラは、舞台がパレスチナです。異国の地の滞在でより筆が進んだのかもしれません。程よくエキゾチックな旋律が流れるこのオペラは、今ではサン=サーンスの代表作品ですが、このオペラも、全幕のパリでの上演が、劇場の支配人によって拒否されてしまいます。それほど、首都での彼の評判は悪かったのです。

   結局、そのころはドイツにいたフランツ・リストが尽力をして、ワイマールで、ドイツ語に台本が翻訳された形で初演されました。オペラの上演は大成功で、フランス人たちは、ドイツで大当たりをとったこのオペラの作曲者が自国のサン=サーンスであることをやっと自覚することになり、15年ののち、パリでも上演されることになります。

    しかし、自国フランスでの容赦ない批判にさらされ続けたサン=サーンスは、その後しばらくしてから、旅また旅の「さすらいの作曲家」になってゆくのです。

本田聖嗣

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