ハイドン晩年の傑作「天地創造」は自主製作だった

   明けましておめでとうございます。新年は、何かが始まるという意識があるからでしょうか、初詣などに行くと、すがすがしい気分になりますね。今日は、何かが始まる...という題材のオラトリオを取り上げましょう。「交響曲の父」として知られる、古典派の作曲家、ヨーゼフ・ハイドンのオラトリオ「天地創造」です。本場ウィーンでも、新年に良く演奏されます。

   オラトリオというのは、宗教的題材をあつかった、演劇的な作品で、しかし、オペラのように劇の演出を伴わず、演奏会形式で演奏される曲の形式です。演奏会場も、宗教作品なのに教会ではなく、通常の演奏会場で演奏されることを前提としています。天地創造は、もちろん旧約聖書の物語と、ミルトンの「失楽園」をあわせた内容となっています。大きく3幕にわかれ、天地創造の第1日から、アダムとイブが登場するところまでを描いています

ハイドン晩年の肖像画。70歳ごろとされる
Read more...

ロンドン訪問で高まった創作情熱

   「交響曲の父」「弦楽四重奏の父」と呼ばれるほど、交響曲や室内楽曲、器楽曲をたくさん残したハイドンが、どうしてこのような作品を残したのでしょうか?

   それには、当時の時代背景が影響しています。ハイドンは、エステルハージーというハプスブルグ帝国の中でもハンガリーに本拠地を持つ貴族に長年仕えました。宮廷楽長として、自由に宮廷楽団も使える身分でしたから、そこで、交響曲をはじめとする数多くの器楽曲の傑作をつくりました。しかし、当主が代替わりし、音楽に興味を示さない人物になると、彼は時間を持て余し気味になりました。そこで、音楽興行主ザロモンという人物に誘われて、イギリスのロンドンに行くことになりました。現地で「ロンドン・セット」と呼ばれる一連の交響曲を作曲し演奏し、結果大成功を収めて、ハイドンは経済的にも潤ったのですが、何より、ほぼハプスブルグ帝国内しかしらなかったハイドンにとって、ロンドンの音楽シーンが刺激的に映ったようです。ロンドンでは、12月この連載でも取り上げた、ヘンデルの「メサイア」を含む「オラトリオ」が盛んに上演されていたのです。ヘンデルはオペラからオラトリオに創作の中心を移した―と、その時に書きましたが、ハプスブルグ帝国内でも辺境の地にあったエステルハージー家の少人数の宮廷内オーケストラしか扱っていなかったハイドンにとって、大編成のオーケストラと、ソリスト歌手と、大編成の合唱団で上演されるロンドンのオラトリオの迫力は新鮮に映ったらしく、彼の創作情熱に火をつけます。

「やとわれ作曲家」の枠を超えるほどの意欲

   ハイドンは、ロンドンから「天地創造」の台本を持ち帰ります。そして、長年彼の協力者であり、優秀な外交官で語学にも堪能だったヴァン・スヴィーテン男爵に独訳をしてもらいます。この人物は、音楽振興のために音楽協会という団体を作り、後年、モーツアルトはこの協会のためにヘンデルのメサイアを逆に英語からドイツ語にアレンジしています。ハイドンは英語でも上演できるように気を配ったといいますが、ドイツ語版として完成し、初演時から大変な成功をおさめ、瞬く間に、ヨーロッパ中に紹介され、広くハイドンの代表作として親しまれるようになりました。60歳を超えた晩年に、彼は自分の音楽人生の総決算として、天地創造の物語を華麗なるオラトリオにしたのです。

   その情熱を証明する事実があります。当時の作曲家は、ほぼ100%、宮廷や教会などの「やとわれ作曲家」でした。ハイドンも、長年エステルハージー家に雇われて、その作品はいかなる場合も「注文生産」だったのです。ところが、この「天地創造」は彼の自主創作として作られた作品なのです。それだけ、ハイドンの創作意欲が高かったことの証明といえるでしょう。年齢から言えば「引退後」かつ、ロンドンでの大成功から経済的にも十分裕福だったにもかかわらず、新ジャンルの大作に挑んだハイドンの情熱は、新年に限らず、今でも人々に生きる希望と新鮮な感動を与えてくれます。

本田聖嗣

注目情報

PR
追悼