療養サポートのメイドをしのぶ遺作か プッチーニが生涯最後に取り組んだアリア

   近代交通機関として最初に成立したのが蒸気機関を活かした蒸気船、次いで鉄道ですが、少し遅れて内燃機関、いわゆる「エンジン」が発明されて、いよいよ自動車が登場します。船や鉄道に遅れた自動車の登場はほぼ20世紀ですが、個人所有できるという嗜好性と、道路さえあれば自由にどこへでも行けるという手軽さが受けて、自動車は瞬く間に近代交通機関の主役となります。

   先週、音楽家は乗り物好きが多いと書きましたが、今日登場するのは、オペラ作曲家として名高いジャコモ・プッチーニです。今日の1曲は、彼の生涯最後のオペラ「トゥーランドット」の第3幕のアリア「氷のような姫君も」です。「トゥーランドット」というと、3大テノール公演や、トリノオリンピックの荒川静香選手が使った曲として、主人公カラフ王子のアリア「誰も寝てはならぬ」がすっかり有名になりましたが、今日のアリアは、カラフの父である老いたチムール帝に付き従い、ひそかにカラフ王子に思いを寄せる女召使、リウのアリアです。

アリアの冒頭
Read more...

車好き高じて事故、それをきっかけに大事件に巻き込まれ...

   プッチーニは、ペーザロ生まれのイタリア人です。現在でもイタリアはフェラーリやランボルギーニといった速い車の産地ですが、プッチーニが情熱を傾けたのも、自動車でした。イタリアの車はスタイリングがいい、その反面故障が多い、などといわれますが、なんといっても一番の特徴は「とにかく速く走るために作られている」ということでしょうか。現在ではEUの法規などでドイツのように無制限に飛ばすことはできませんが、それでも、エキサイティングな車づくりをしているメーカーがたくさんあります。普段はノーマルモードでおとなしく走り、いざとなればスポーツモードに切り替えて激走気分を味わう、そんな装置もよく搭載されています。プッチーニも、イタリア人の例にもれず、飛ばしたのでしょうか、交通量も少ない時代なのに、大きな事故を起こしてしまいます。オペラ「蝶々夫人」を書いている最中でしたが、事故で足を骨折したために、車椅子での生活を余儀なくされます。立てないと日常生活がいろいろ不便なため、メイドを雇うことになりました。やってきたのが、ドーリア・マンフレディという少女です。一方、プッチーニの妻エルヴィーラはとても嫉妬深い女性でした。彼女はプッチーニとドーリアの仲を疑い、激しく、何か月もドーリアを責め立てます。そして、かわいそうなドーリアはそれを苦にし、服毒自殺を図り亡くなってしまい、エルヴィーラも起訴される、という大事件に発展してしまいました。今年の日本でも不倫がたびたび大騒動になっていますが、当時のイタリアで人気絶頂の作曲家プッチーニの周囲で起こったこの大事件は、関係者全員に衝撃を与え、プッチーニも2年ほど作曲どころではなくなってしまいました。

   「ドーリア事件」の後、プッチーニはアメリカを舞台にしたオペラ「西部の娘」や、1幕物の短いオペラ「ジャンニ・スキッキ」などの傑作を発表し、いよいよ大作「トゥーランドット」に取り掛かります。しかし、そのころ、徐々に病魔がプッチーニの体を蝕んでいました。ヘビースモーカーだったプッチーニですが、咽頭癌にかかっていたのです。

病死で未完の「トゥーランドット」 書き上げていた女召使リウの自死

   トゥーランドットの物語は、結婚したくない中国皇帝の姫、トゥーランドットが世界中からやってくる求婚者に3つの謎をかけ、全て解けなければかたっぱしから処刑してしまう、という残忍なキャラクター設定が第1幕冒頭から説明されます。北京にやって来た放浪の王子カラフ、実はチムール帝国皇帝の息子である彼が、姫に一目ぼれをして、身分を隠して謎に挑戦をします。第2幕で、見事に3つの謎を解いた王子は姫に、逆に謎を出題します。「夜明けまでに私の名がわかれば結婚は辞退しましょう。」――。第3幕の冒頭で、王子が余裕たっぷりに「誰も寝てはならぬ」のアリアを歌うのは、王女の指示によって北京中の人々が「謎の王子」の名前を探り当てるべく右往左往しているからです。

   没落したカラフの父チムールに寄り添っていた召使リウは、役人たちにつかまり、姫の面前に引き出されます。「一緒にいるところを目撃された彼女なら、王子の名前を知っているに違いない」と、トゥーランドット姫は彼女を拷問にかけます。しかし、彼女は決して口を割らず、隙をみて衛兵の刀を奪って自刃してしまいます。その前に、姫に向かって歌うアリアが「氷のような姫君も」なのです。氷のような姫君の心も、あの方の情熱の炎に負けて、愛すようになりましょう...私は夜明けの前に、疲れて目を閉じます、あの方が再び勝利するように、そして再び彼を見なくてよいように...。歌詞に込められたリウの秘められた恋心、そして自ら死を選ぶ強さと潔さにさすがのトゥーランドット姫も心を開き、カラフ王子と結ばれてハッピーエンド...となるのですが、ひとり寂しく死んでゆくリウは、健気で、かわいそうな女性です。

   プッチーニの体調は悪化していました。彼の癌はもう手術では治療不可能とされ、最後の望みをかけてベルギーのブリュッセルで放射線治療を受けることになりました。残念ながら、その治療はうまくゆかず、彼は異国の地で帰らぬ人となります。結局トゥーランドットは未完のオペラとなり、弟子が補筆することになるのですが、プッチーニは死を予感していたのでしょうか、体調不良の中、最後のリウのアリアと自死のシーンまでは書き上げてブリュッセルに出発していたのです。

    ひょっとしたらリウのキャラクターの中に、プッチーニは亡きドーリアの影を見ていたのかもしれません。

本田聖嗣

注目情報

PR
追悼