60年前の『北方領土問題の内幕』とは
安倍・プーチン首脳会談で進展するのか

   安倍首相とプーチン大統領の日ロ首脳会談が2016年12月中旬に日本で開かれる。領土問題で進展を期待する声が高まっている。

    日ロ間の領土問題の基本となるのは、1956年の日ソ共同宣言だ。「平和条約締結後に歯舞、色丹を引き渡す」と書かれている。60年前の日ソ交渉でどんなやりとりがあったのか。『ドキュメント 北方領土問題の内幕』(若宮啓文著、筑摩書房、16年8月15日刊)は新資料なども駆使して当時の迫真のドラマを再現する。


『ドキュメント 北方領土問題の内幕』(若宮啓文著、筑摩書房)
『ドキュメント 北方領土交渉の内幕』(若宮啓文著、筑摩書房)
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「引き分け」と「はじめ」

   著者の若宮氏は元朝日新聞政治部長で論説主幹、主筆などを歴任した。読売新聞の渡辺恒雄主筆としばしば「対論」したことでも知られる。プーチン氏とは実際に2012年3月1日に会っている。「大統領、北方領土の問題で大きな一歩を踏み出す用意はありますか」と単刀直入に質問。「領土問題は勝つことを目指すことより、負けないことが大事だ。引き分けがよい」との答えを引き出した。

   「引き分け」とはどういうことか。北方四島のうち、歯舞と色丹の二島を返せば二分の一だから引き分けになる、というのでは日本側としては納得しがたい。そこですかさず若宮氏は、「引き分けを求めるのなら二島では不十分だ」とたたみかける。すると、直後に大統領に2度目の再選を果たすことになるプーチン氏は破顔一笑。「自分が大統領に復帰したら、日ロの外交当局に『はじめ』の号令をかけよう」と答えた。「引き分け」と「はじめ」。いかにも柔道家のプーチン氏らしい受け答えだった。

   やりとりの中でプーチン氏は何度も「1956年の共同宣言」という言葉を口にしたという。当時の交渉はどんなものだったのか。時代を振り返ると、1953年、スターリン死去。54年、親米の吉田茂首相が退任。後任の鳩山一郎首相は、日本の国連再加盟を悲願とする。そのためには日本の加盟に反対するソ連との関係正常化が必要だった。

   ソ連側の責任者はフルシチョフ第一書記。日本側は日ソ漁業交渉の当事者でもあった河野一郎農相。激高した河野氏がテーブルをたたき、紅茶カップが倒れた話は有名だ。

   1年半にわたる交渉の末に、「両国は戦争状態を終結し、外交関係を回復する」「両国はそれぞれの自衛権を尊重し、相互不干渉を確認する」「ソ連は日本の国際連合加盟を支持する」「ソ連は戦争犯罪容疑で有罪を宣告された日本人を釈放し、日本に帰還させる」「ソ連は日本国に対し一切の賠償請求権を放棄する」「両国は引き続き平和条約締結交渉を行い、条約締結後にソ連は日本へ歯舞群島と色丹島を引き渡す」などとした日ソ共同宣言が56年10月19日、署名された。

「なるほど、そういうことだったのか」

   『内幕』の著者、若宮氏の父は、若宮小太郎氏。この交渉に熱心だった鳩山首相の首席秘書官で、首相や河野氏と終始行動をともにしていた。その克明な日記が、若宮氏の手元に残されていた。日本の外務省は当時の交渉記録を全くと言っていいほど公開していないが、鳩山一行の通訳を務めた野口芳雄氏による会談録(野口メモ)が05年に明らかにされた。河野一郎氏の元秘書の石川達男氏や、河野氏の次男、河野洋平氏の豊富な資料も若宮氏に託されていた。

   日ソ交渉については、すでに鳩山、河野両氏の自伝や、長く交渉に携わった松本俊一氏、当時の取材記者らの資料も豊富に残されている。さらにペレストロイカによって新たにロシア側で公開された資料も多数にのぼる。これらをあわせて、若宮氏は難題だらけだった交渉過程をトレースする。「一か八か、河野一郎の勝負」「フルシチョフとの一騎打ち」など、高度の外交交渉の人間臭い側面を活写している。

    政治記者だったとはいえ、日ソ交渉は著者の専門外だった。それだけに執筆を進めるにつれ、「なるほど、そういうことだったのか」という発見の連続だったという。あれから60年、領土交渉は暗礁に乗り上げたままだ。12月の安倍・プーチン会談ではたして画期的な動きがあるのか。若宮氏はその行方を見定める前の今年4月、訪問先の中国で急逝した。68歳だった。

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