ピアノ曲の新ジャンルになったメンデルスゾーンの「ヴェネツィアの舟歌」

   1909年の生まれで、翌年に生まれたショパンとシューマン、そして、翌々年生まれのリストなどとともに、19世紀に花開いた「ロマン派」音楽を牽引した一人が、北ドイツ・ハンブルク出身で、ベルリンやライプツィヒで活躍したフェリックス・メンデルスゾーンです。

   彼はこの連載でもバッハを復活上演し、少し前の時代の音楽=クラシック音楽を聴く、という習慣を定着させたり、ピアノのための無言歌集(春の歌)といった弾きやすいピアノのための小品を作曲して、ピアノ音楽の一般への普及を後押ししたり、と演奏においても、作曲においても、音楽史上誠に重要な活躍をした音楽家でした。

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裕福で理解ある家に生まれたメンデルスゾーン

   ロマン派、特に19世紀前半に活躍した作曲家は、それ以前の「古典派」と呼ばれる時代と違って、家業としての音楽家ではない場合が多くなっていました。例えば、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンは、レヴェルの差こそあれ父親が音楽家でしたが、上記ロマン派の4人は、銀行家、フランス語教師、出版業者、貴族の土地管理人・・と、本業が音楽であった人は誰もいません。これは、音楽に限らず、他の芸術分野でも同じですが、ロマン派の時代は、職業選択の自由がある程度確保され、本人の才能によって、その分野で名をあげることが可能になった時代、といえるでしょう。フランス革命に端を発した「平等な社会」は、確実に実現しつつあったのです。

   メンデルスゾーンは、ロマン派を牽引した作曲家の中でも、異色の存在でした。若き芸術家というのは大体貧乏生活からスタートするものですが、彼は、裕福で理解のある家庭に恵まれたため、若いころから、見分を広めるために、広く国外を旅するのです。それは、まさに19世紀イギリスなどの貴族の子弟が行った、イタリアなど大陸の南の国を目指す「グランド・ツアー」と同じような旅でした。

   恵まれた家庭環境のものと、音楽だけでなく、文学、語学、哲学、そして美術も勉強していたメンデルスゾーンは、自らも、絵筆を持ち、絵画にも並々ならぬ興味がありました。彼は、20歳の時、各地で演奏しつつ勉強するために、旅立ったのですが、そこには、各地の歴史的名画を自分の目で見る、という目的もありました。ティッツィアーノ、ヴェロネーゼ、ティントレットなどのヴェネツィア派の絵などは、彼に鮮烈な印象を与えたはずです。

   同時に、水の都という独特の風景も、メンデルスゾーンに強い印象を与えたようです。この「グランド・ツアー」中から書き始められ、結果的に彼のピアノ曲のライフワークにして、一番の人曲集となった「無言歌集」・・・最終的に、生涯で6曲×8巻=48曲のピアノの小品を集めた曲集となります・・・の中に、彼自身がタイトルを付けた「ヴェネツィアの舟歌」という曲が登場するのです。

アマチュアが家で楽しめる作品

   第1巻Op19-6番、第2巻Op.30-6番、第5巻Op.52-5番と、結果的に48曲のうち、3曲が「ヴェネツィアの舟歌」と名付けられているので、それぞれ「ヴェネツィアの舟歌第1」、「同第2」「同第3」と便宜上呼ばれています。現代の楽譜には、以前登場させた「春の歌」を含めてほとんどタイトルがつけられていますが、ほとんど出版社や後世の人間によって売り上げアップを目指してつけられた題名で、メンデルスゾーン自らの命名は、わずか5曲しかありません。

   そのうち3曲が「ヴェネツィアの舟歌」なのですから、メンデルスゾーンがヴェネツィアのゴンドラの風景から受けた印象は、強烈なものだったといえましょう。

   曲はそれぞれ、ゴンドラの揺れる風景を象徴するような左手のパッセージの上に、船頭の歌でしょうか、物憂げな旋律が右手に現れます。決して陽気なイタリア、ではないところがリアリティを感じさせます。

 

   メンデルスゾーンの無言歌集は、当時、一般家庭にも普及しつつあったピアノという楽器とワンセットで・・つまりアマチュアが家で弾いて楽しむ、という需要に合致し・・大ヒット作品となり、各「ヴェネツィアの舟歌」も広く知られる作品となります。

   そして、結果的に、ショパンや、後の時代のフォーレなど、「舟歌」と銘打ったピアノ曲を作曲するフォロワーが現れ、ピアノ曲の「性格小品」と呼ばれる1ジャンルを確立することになるのです。

   メンデルスゾーンは40年に満たないわずか38歳の生涯でしたが、彼の後世に与えた影響は大変大きなものだったのです。

   日本では、6月、少し憂鬱な梅雨の時期が続きますが、メンデルスゾーンの「ヴェネツィアの舟歌」は、そんな雨の風景にも合う、素敵な小品たちです。

本田聖嗣

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