「来た、見た、作曲した!」 少年モーツァルトがイタリアで放った最初の輝き

   先週は、イタリアに行ったことのないドイツのバッハが書き上げた傑作、「イタリア協奏曲」を取り上げましたが、今日は、バッハなどのバロック時代のあと、古典派の時代に燦然と輝く作曲家、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトがイタリアの影響を受けて書いた最初のオペラ、「ポントの王ミトリダーテ」を取り上げましょう。

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父と姉とヨーロッパ大旅行

   モーツァルトは、現在はオーストリアの、当時は大司教領だったザルツブルグの出身で、父親レオポルトに連れられて、幼少期からヨーロッパを広く旅したことはよく知られています。姉ナンネルも一緒の旅が多かったのですが、当時の男性優位の社会状況を考えても、父レオポルトは、弟ヴォルフガングに大いなる期待をもって、見聞を広めて彼の音楽的才能を伸ばすためと、同時にあわよくばどこかの宮廷に音楽家として認められて召し抱えられないかという期待を持って、おそらく莫大な費用をかけて、一家による旅行をたびたび企画しました。現在のように、フリーの音楽家という職業が成立する前ですから、音楽で生きてゆくためには王族・貴族に召し抱えられることがどうしても必要だったのです。

   旅行は、まずは、同じドイツ語圏である、現在では隣国ドイツのミュンヘンや、ハプスブルクの帝都、ウィーンなど近隣の地を目的地として開始されました。既にその旅行の時点で、演奏及び作曲に天賦の才を現し始めた息子の才能を確認したレオポルトは、もともとドイツのアウクスブルク出身でもあったので、彼がまだわずか7歳の時、北西ドイツを経由し、ネーデルランド(オランダ)、フランス、そして遠くイギリスのロンドンまで周遊する大旅行を敢行します。

   この大旅行の計画時点ですでに、レオポルトは「音楽先進国」である、北イタリア地域を合わせて周ることを考えていたのですが、いろいろな縁故を頼って北部ヨーロッパの宮廷や教会をめぐるうち、当初は予定になかったイギリスにまで足を延ばしたため、大幅に旅行期間が長くなり、最後は後ろ髪をひかれながら、パリからスイス、一部北イタリアを経由して故郷ザルツブルクに戻りました。実に3年半の時が経過していました。

   その後、ウィーンの宮廷に10代の少年となったヴォルフガングとともに、演奏・売り込みの旅行をしますが、6歳の幼少期に大歓迎してくれたウィーンの宮廷の態度は冷たく、レオポルトはウィーンの宮廷に息子を売り込むことをあきらめ、ついにイタリア旅行を決断します。そこには、音楽先進国で学ばせて、さらに天才ヴォルフガングの才能を伸ばそう、という教育的配慮も当然ありました。

14歳の少年が作ったほぼ処女作が大ヒット

   モーツァルト13歳の時、ついに父とともに「音楽の本場」イタリアに旅立ちます。もちろん、この旅においてもヴォルフガングという才能の宣伝・売り込みが父レオポルトの目的ですから、大旅行の時と同じく、地元やウィーンの知り合いの貴族などから推薦状・紹介状をもらい、伝手を頼って宮廷や教会を渡り歩く旅でした。旅の間も、旅費をいくらかでも稼がねばならないので、演奏会を開き、また依頼があれば、作曲もしつつの旅でした。

   当時イタリアは現在のようなイタリア人による国民国家ではなく、教皇庁や、ヴェネツィアのような独立した共和国、フィレンツェのような小領主国家、スペインやオーストリアのハプスブルク系の領主を持つ小国などに細かく分かれており、ウィーンの宮廷の紹介状があれば、国によっては有利に事が運ぶかも・・という目論見もあったのでした。

   オーストリア領だったミラノの総督から、モーツァルトはオペラの作曲の依頼を受け、そのころイタリアの音楽を学んでめきめきと力をつけたモーツアルトは、ありったけの力を振り絞って、この「ポントの王ミトリダーテ」を3か月で完成させます。

   とはいっても、まだわずか14歳の少年のほぼ処女作です。熟練の作曲家の作品に比べたらまだ不備な点もあったことは想像に難くありません。事実、上演にあたって、歌手などから、いくつもの修正の注文があったといいますが、これは、当時は現在と違って、作曲家より歌手のほうが威張っていて、作曲家をこき使う、というイメージがあったのと、オーストリア領と言いながらそこはイタリア、「なぜドイツ語を話すザルツブルクという田舎からきた、それも少年の作曲した作品を演奏せねばならんのだ!」という地元音楽界の反感にもさらされたのが原因のようです。

   長じてからは作曲の楽譜がいつも清書のようにきれいで、推敲のあとがほとんど見られない・・つまり、頭の中で完璧に仕上げてから楽譜を書くモーツァルトにしては、このオペラに関してだけは、たくさんの修正稿が存在しています。

   少年と父にとっては厳しい試練となりました。イタリア滞在も結局長くなり、モーツアルトはドイツ語環境を懐かしむなど、少々ホームシックにもかかっていたようです。

   しかし、初演された結果、このオペラは大変な評判となり、20回以上も再演されることになります。歌手たちも、そのアリアの魅力に気付かざるを得ず、何より聴衆もそれに反応して、初演時には異例のアンコールが何回もかかった、とレオポルトは得意げに故郷への手紙につづっています。

   まだわずか十代半ばのモーツァルトは、この時すでに「イタリア語」と「オペラ」という音楽先進国の財産を自分のものにしていたことがうかがえます。オペラは器楽と違って、言葉への深い理解がなければ、良いメロディーは書けないからです。

   現在では、その後のモーツァルトの大傑作オペラの陰に隠れて上演されることはめったにない「ポントの王ミトリダーテ」ですが、ニ長調の軽快な序曲や歌手たちのアリアは、この天才作曲家の少年時代のみずみずしい感性を伝えてくれます。モーツアルト・オペラの原点がここにはあります。

本田聖嗣

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