ベートーヴェンの忠実なパトロンで生涯の友 ルドルフ大公に捧げたピアノ三重奏曲第7番「大公」

   春は引っ越しのシーズンです。先週は、北ドイツからウィーンに引っ越してきたブラームスが登場しましたが、今週は、同じくウィーンに居を移しただけでなく、そのウィーンの中で79回引っ越したといわれる、「クラシック史上最大の引っ越し王」に登場してもらいましょう。ルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンです。

ピアノ三重奏曲 第7番の楽譜たち ルドルフ大公への献呈の文字が見える
Read more...

史上初めてのフリーの作曲家

   ベートーヴェンは、音楽を演奏したり作曲したりすること以外のすべてが苦手だったようです。生涯独身だったため、お手伝いさんは頼んでいたものの、家の中はいつも乱雑に散らかっていて、そこに暮らすのが苦痛になってくると、引っ越す・・ということを繰り返していたようです。また、ヴァカンスシーズンは、耳の療養なども兼ねてウィーンから離れた保養地に行くことも多かった彼ですが、保養地の中でも一か所に滞在するのが苦手で、数回移動を繰り返した、といわれています。

   また、作曲のインスピレーションがわいてくると、止まらなくなるベートーヴェンは、五線紙以外に家の中のありとあらゆるところにも楽譜を書きつける癖がありました。あるとき、友人たちが、「君と友情の証しに、君の作曲した楽譜の一部が書いてある家具を持って行っていいかね?」と尋ねてきたので、作曲中で上の空だったベートーヴェンは「どれでもよいから家の中のものを持っておいで!」と返答したところ、玄関ドアを友人たちは持って行ってしまい、さすがにその後ドアが無くなって不用心なため、玄関の扉には以後楽譜を書かなかった・・というようなエピソードさえ語られています。

   東の北斎、西のベートーヴェンといわれるような「引っ越し魔」だったベートーヴェンですが、彼は史上初めてのフリーの作曲家、だったといわれています。楽譜を売ったり、演奏会で自作を演奏したりして、市民階級から楽譜代や入場料をいただいて生活する・・現代では当たり前の「独立した、プロの」音楽家だったというわけです。

   それ以前の、モーツァルトの時代では、貴族や王族、教会という継続的な雇い主を持つことが当たり前でした。作品はすべて雇用主からの発注によるもので、作りたい曲を作って、市民相手に「自作を問う」というようなことができなかった・・・だから、ベートーヴェンは、それまでにない斬新な曲をたくさん作ることができたのだ、と。

ベートーヴェンのピアノ三重奏曲の中で最も有名

   これは半分だけ正解です。ベートーヴェンは確かに「自由な作曲家」でしたが、パトロンがいなかったわけではありません。ゲーテと散歩しているときに、すれ違った王族に頭を下げなかったことでゲーテに驚かれた、「誇り高きベートーヴェン」ではありますが、ちゃっかりというかしっかりというか、「年金」と呼ばれるスポンサー料を、いくつもの貴族から受けていました。

   しかし、ベートーヴェンの活躍した時代はナポレオン戦争の真っただ中でした。もともと没落気味だった貴族は戦費の負担や一族の人間の戦死などが重なり、音楽家への年金どころではなくなる場合が多く、ベートーヴェンへの援助は次々と打ち切られるのです。彼が、「市民階級の作曲家」になったのは、そういった時代背景もありました。

   しかし、その中でほとんど唯一、生涯にわたって、ベートーヴェンを援助した人がいました。ルドルフ・フォン・エスターライヒ、「ルドルフ大公」と呼ばれた人です。在位わずか2年だったハプスブルグ皇帝レオポルト2世の末っ子で、父は音楽をあまり庇護しませんでしたが、ルドルフ大公はベートーヴェンに師事し、自らも演奏・作曲をし、そして、ベートーヴェンと師弟・パトロンといった関係を超えて生涯の友人となるのです。大公は病弱で、若干43歳で亡くなっていますが、ベートーヴェンは彼の生前に、たくさんの曲を献呈し、また彼からも献呈されています。

   ベートーヴェンのピアノ三重奏曲 第7番 Op.97は、「大公トリオ」と呼ばれていますが、ベートーヴェンがルドルフ大公に捧げた数多くのなかの1曲であり、彼のピアノ三重奏曲の中で最も有名な曲ともなっています。ピアノの生徒だったルドルフ大公のためでしょうか、ヴァイオリンとチェロに負けず劣らず、ピアノが大変活躍する曲となっています。その有名なメロディーは、放送などにも使われることが多く、芸術を愛好した大公と、生涯変わらぬリスペクトを返したベートーヴェンの友情の旋律は、現在でも世界中で愛されているのです。

本田聖嗣

注目情報

PR
追悼