加藤登紀子、「1968」から始まる
「歌い手」50年の「終わりなき旅」

   タケ×モリの「誰も知らないJ-POP」

   「問題は長生き。長生きの人のヒストリーを語るのは難しいんです」

   加藤登紀子は、今日のコンサートのテーマが「加藤登紀子」だと言ってから心持ちいたずらっぽい口調でこう続けた。

   「なぜならまだ生きてる。どんな人でも始まりと終わりがありますけど終わってない。始まりを語ることになります」

   4月21日、東京・渋谷、Bunkamuraオーチャードホールで行われた「TOKIKO'S HISTORY~花はどこへ行った」の初日である。オープニングに続いて「悲しき天使」「美しき五月のパリ」「さくらんぼの実る頃」と3曲続けた後だ。彼女は、そんな話をしてから「たった50年ですけど、1968年を彷彿とさせる曲を」と言った。


加藤登紀子「ゴールデン☆ベスト TOKIKO'S HISTORY」(ソニー・ミュージックダイレクト、アマゾンHPより)
加藤登紀子「ゴールデン☆ベスト TOKIKO'S HISTORY」(ソニー・ミュージックダイレクト、アマゾンHPより)
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加藤登紀子という「歌い手」は何を求めてきたのか

   実質的一曲目の「悲しき天使」は1968年にメリー・ホプキンの歌で世界的にヒットした曲だ。元歌はロンドンに亡命していたロシア人たちが歌っていた「遠い道」だったという。2曲目「美しき五月のパリ」は1968年にパリの学生街、カルチェ・ラタンから始まった「5月革命」の中で生まれた歌、「さくらんぼの実る頃」は、彼女が声優としても出演、歌も歌ったスタジオ・ジブリのアニメ「紅の豚」の主題歌。そもそもは1871年にパリで起きた市民革命の中で成立、市民と政府の72日間の戦闘の末に制圧されてしまったパリ・コミューンで闘って命を落とした人たちへの追悼として歌われた曲。確かに、どれも1968年を思わせる曲だった。

   加藤登紀子は、1943年12月、満州のハルビンの生まれ。東京大学在学中の1965年、アマチュアシャンソンコンクールで優勝し、翌1966年にデビュー、日本レコード大賞新人賞を受賞している。

   4月18日、彼女のアルバム「ゴールデン☆ベスト~TOKIKO'S HISTORY」が出た。DISC1と2に分かれた二枚組は全35曲。ツアー「TOKIKO'S HISTORY~花はどこへ行った」は、その中から曲が選ばれている。

   更に、アルバムに合わせて書き下ろしの書籍「運命の歌のジグソーパズル」(朝日新聞出版刊)も発売になった。アルバムに収録されている曲にまつわるエピソードの数々は、あらためて「加藤登紀子」という歌い手がどんな軌跡を描いてきたのか、何を求めてきたのかを劇的に物語っていた。

   本は「1・遠い祖国」「2・この世に生まれてきたら」「3・愛の讃歌」「4・百万本のバラ」「5・ひとり寝の子守唄」「6・あなたの行く朝」「7・時には昔の話を」「8・蒼空」という章に分かれている。どれもアルバム「ゴールデン☆ベスト TOKIKO'S HISTORY」に収録されている曲のタイトルである。

   例えば「遠い祖国」は、生まれ故郷の満州の話だ。

   彼女の父がハルビンの「日露協会学校」の学生だったこと。その学校を設立した東京市長、後藤新平の孫、思想家の鶴見俊輔が彼女の夫・藤本敏夫の学生時代の師だったこと。敗戦時に兵役で消息が不明だった父親を残して母親に「歩かないと死ぬことになる」と言われて命からがら引き上げてきた2才の時のこと。そして、1981年に日本人歌手で初めてハルビン音楽祭に参加した時のこと。88年の曲「遠い祖国」が彼女の「運命のジグソーパズル」の最初のピースであること――。

   それぞれの曲に織り込まれた時を超えたいくつものエピソードは偶然とは思えない、それこそ運命的な糸のように連なっている。

   中にはすでに公になっていることもあるのかもしれない。でも、満州に青年の夢を託した父親が実は「歌手志望」で復員後にキングレコードに入社し「軍服のディレクター」と呼ばれていたことや、彼が手掛けた岡晴夫主演の映画制作時に美空ひばりに出会い、歌のうまさに驚かされつつ、少女歌手という前例がないために躊躇しているうちにコロムビアからデビューしてしまったというような話は知らない人の方が多いのではないだろうか。アルバムのDISC2の最後は美空ひばりの「終わりなき旅」だ。

   そして、高校の時に60年安保に反対するデモに参加、東大演技研究会でエディット・ピアフに傾倒していた彼女にシャンソンコンクールに出ることを勧めたのが父親だったことや、彼が戦後の音楽史に必ず登場する飛行館スタジオの支配人だったことなど、「加藤登紀子」という個人の向こうにいくつもの時代のストーリーが見えてくるのも発見だった。

キャリアの始まりをなぜ1968年にしたのか


加藤登紀子「運命の歌のジグソーパズル」(朝日新聞出版、アマゾンHPより)

   そして、1968年である。

   彼女が自分のキャリアの始まりを「1968年」としたのはなぜなのか。「4・百万本のバラ」以降はその答えだろう。1968年という時代がどういう年だったのか、そして、彼女にとって何があったのか。それがなぜ「始まり」なのか。時代背景や歴史的経緯。一つの歌にどのくらいの出来事が刻まれているのかが浮き彫りになってゆく。

   1968年、彼女は横浜から船で40日間のソ連旅行に出かけている。世界は新旧の価値観の間で揺れ動いていた。パリの5月革命、プラハの春と呼ばれたチェコの民主革命、ベトナム戦争が泥沼化していたアメリカでは平和運動の指導者だったキング牧師の暗殺とフラワームーブメント、そして彼女も座り込みに参加したという東大や日大の全共闘に象徴される日本の学園闘争。彼女はソ連旅行でその現場を経験する。戦争と平和、自由を求める人たちとそれを圧殺しようとする力。おびただしい血が流され、それでも歌い継がれてゆく歌。それを歌った人や作った人を見舞った悲劇は第二次世界大戦やロシア革命、フランス革命、抗日運動にまでさかのぼってゆく。「百万本のバラ」「悲しき天使」「暗い夜」「リリー・マルレーン」「暗い日曜日」「今日は帰れない~パルチザンの唄~」、そして「鳳仙花」、、、。どれもそんな物語を持っている歌ばかりだった。

   彼女はそうした日々の中で夫となる藤本敏夫さんと出会っている。彼が初デイトの夜に星空の下で歌ってくれたのが「知床旅情」。1968年のことだった。

   坂本龍一は彼女のことを「歌手にあるまじき研究熱心」と言ったのだそうだ。それは誉め言葉以外の何物でもないのだろうが、単にその歌を歌うことに留まらない幾重にも折り重なったストーリーは、彼女の探究心があってこそだろう。一見無関係に見えたそれぞれの歌が「加藤登紀子の地図と年表」を描いてゆく。

   アルバム「TOKIKO'S HISTORY」にも全曲についての彼女のコメントがついている。でも、「運命の歌のジグソーパズル」が教えてくれることはその比ではない。

   彼女は本の最後をアメリカの反戦歌だった「花はどこへ行った」の作者、ピート・シーガーのこんな言葉で締めくくっている。

    「私は、誰かが掘った井戸から水を飲んでいる。誰かの点火した火で体を暖めている」

(タケ)

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