「朝鮮通信使」の影響を映す
建仁寺両足院の貴重な文物を調査

   長崎県対馬市。北部の突端に立てば、すっきりと晴れた日には韓国・釜山が見える。日本と韓国を隔てる対馬海峡の距離は約50km。古代は防人が常駐した、日本列島の守備の要衝地である。

   また対馬は半島との距離の近さから、古来、朝鮮半島と日本列島との中継基地の役割も果たしてきた。室町時代から江戸時代にかけて李氏朝鮮が日本に派遣した外交使節団「朝鮮通信使」も、対馬を通って京や江戸に上った。

「両足院」と彫られた堂々たる扁額(へんがく)の文字は、朝鮮通信使が筆をとったものである。彼らは教養が高く、書をよくした。他の禅宗寺院にも朝鮮通信使が書いた扁額を掲げているところがある。(写真・渡辺誠、以下同)
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京都の高名寺院が僧を派遣

   朝鮮半島と日本との歴史をひもとけば、鎖国の時代にも人や文物の交流が行われてきた。その交流には京都五山と呼ばれる禅宗寺院も関係している。

   京都五山のうち、南禅寺を除いた天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺は、対馬の厳原(いずはら)にあった幕府の外交実務を担当する『以酊庵』(いていあん)(現・西山寺)に、輪番で僧を派遣してきた。漢学に秀でた学僧たちは、李氏朝鮮や対馬藩との折衝や応接、外交文書の作成などを担当し、来日した朝鮮の人々と幅広い交流を持った。寺院側としては、幕府が莫大な資金をかける「プロジェクト」の一員となれば多額の収入にもなるため、喜んで僧を派遣していたという。

「最初のうちは対馬藩が密貿易を手がけ、日本の国書を改竄(かいざん)するなどの問題があったため、幕府は見張り役として五山の僧侶を派遣して、自分たちでコントロールをしようとしたのです。同じお坊さんが何度か行くこともあったようですね」

   と話すのは、朝鮮絵画の研究者・片山真理子だ。片山は今、韓昌祐・哲文化財団の助成金を得て、建仁寺の塔頭(たっちゅう)・両足院に残された朝鮮の文物を調査中である。

   東京藝術大学美術学部付属古美術研究施設の非常勤講師を勤める片山だが、以前は15年にわたって「高麗美術館」(京都市北区)の学芸員として働いていた。高麗美術館が2007年に、朝鮮通信使来日400年記念の展覧会「誠信の交わり--通信使の息吹」、そして2013年に「朝鮮通信使と京都」を開催した際には、中心となって図録を作成している。通信使をテーマにした特別展を契機に五山の一つ、建仁寺両足院との縁が深まった。美術館が収蔵している資料だけでは足りず、外部から関係資料を借りなくてはならなかったからだ。両足院には寺宝となる美術工芸品が受け継がれているが、朝鮮関係の資料があることを知る人はあまりいないだろう。

朝鮮通信使の応接を担った建仁寺の禅僧たち

   朝鮮通信使が来日していた間に、建仁寺からはのべ32人が以酊庵に赴任しているという。そのため、両足院にも当時の資料が多く残されているのである。

「以前、京都国立博物館が両足院さんの悉皆調査(しっかいちょうさ/対象をもれなく調査すること)は行っているのです。その時担当された先生にご紹介いただいて、伺うことができました」

   多くの人に開かれている建仁寺の方丈とはことなり、威厳ある両足院の門は当時閉ざされており、訪問者は横の通用口の呼び鈴を押して返答があってから入る。片山も最初は緊張したというが、何度も通った今では、住職一家や手伝いの人たちともすっかり顔なじみである。

   京都国立博物館が行った悉皆調査の期間は1週間。限られた時間の中では調査の対象も貴重な文物が中心にならざるを得ない。片山はそれ以外のものも整理分類して整理台帳を作り、両足院のホームページで目録と画像を公開したいと考えた。それなら両足院のメリットにもなるし、今後の研究者たちに役立ててもらえる。一見「お宝」と思えないものでも、朝鮮文化の特徴を今に伝え、人々の暮らしを感じさせるものもまた貴重である。

   ただし調査には時間とお金が必要である。見積もりを作り、韓昌祐・哲文化財団に添えて助成金を申請したところ、満額が助成されることが決まった。

「地味なテーマですので、こちらの財団でなければ助成はしていただけなかったと思います」

はるばるやってきたキムチを漬ける甕器(オンギ)や朝鮮絵画

   こうして、片山の両足院通いが始まった。両足院にあるいくつもの蔵のうち、壁の塗り直しをしなければいけない蔵がふたつあった。工事の前に資料を取り出し、宝物や書籍の一時保管先として花園大学歴史博物館、同大学国際禅学研究所、京都国立博物館、京都市歴史資料館などへ預け、保管中に公益財団法人禅文化研究所のデジタルアーカイブス事業に組み入れて調査を行う算段である。中には何十年も開けたことのない長持もあった。

   両足院ほどの名刹(めいさつ)でも、かつて「小僧さん」や役僧を抱えていた時代とは違い、住職一家は毎日の寺務だけで忙しい。大切なものがしまわれていると知っていても、自分たちではなかなか手がつけられなかった。その点では、片山の申し出は渡りに船だったかもしれない。

「何十年分ものホコリやカビがたまっていたので、長持を開けると鼻の中が真っ黒になりました(笑)。膨大な資料の中でも私が調査しようとしているのは朝鮮美術ですが、とりあえず全部を見ないとどれが朝鮮美術なのかわかりません。その中には書画もありましたし、焼き物もありました。掛け軸が何本もまとめて納めてあったり。ほかにも、雲水(うんすい)さんが使った漆塗りの経机や食器など、ほかす(捨てる)ことはできないけれど、とっておくのも大変という品がたくさんあったんです」

   両足院は学僧が輩出し、現住職の父も蔵の中にある古典籍(こてんせき)などはよく読んでいた。それだけは目立つところにあったが、ほかはよくわからない。ひとつひとつ広げてみて分類する作業が続いた。

   珍しいのはキムチを漬けていたと思われる甕器(オンギ)。傾けると、中からカラカラになった唐辛子が出てきた。朝鮮半島からキムチを入れて対馬に渡ってきた甕器が、建仁寺の僧によって京に持ち込まれ、蔵の奥深くしまわれていたのだ。

   日本では高麗茶碗のように雑器が茶道具に転用され、珍重されてきた歴史があるが、ハングルで大きく「朝鮮国」と書かれた甕器はもっと素朴なものだ。日本にやってきた朝鮮半島の人々にキムチはやはり欠かすことのできないものだったらしい。墨で描かれた羅漢(らかん)図も見つかり、片山を喜ばせた。

   今、片山は両足院に通いながら資料の預け先にも行って、資料を細部まで検討・分類する日が続いている。

「整理台帳ができたら、両足院のご住職には200年、300年という長い目で見て、膨大な資料のうち何を残していくのかというご提案もしていきたいと思っています」

   すぐに答えの出る問題ではないが、丹念な調査と分類を経て次の時代に受け継ぐべきものを考えていくのも、片山が担うプロジェクトにふさわしいテーマであろう。名刹・建仁寺両足院の貴重な文物が整理され、後世に受け継がれていけば、日本と朝鮮半島の交流の歴史に、派手さはなくても新たな一筋の光が当たるにちがいない。

(敬称略、文・ノンフィクションライター 千葉望)

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