頻繁に旅したアフリカの地を曲に サン=サーンス「アルジェリア組曲」

   意外と知られていないことですが、2019年の今、アフリカ大陸で一番大きい国はどこでしょう?

   2011年にスーダンと南スーダンが分離したので、正解は地中海に面した北アフリカのアルジェリアです。現在は大統領を4期務めたブーテフリカ氏が5期目を狙う、ということで反対デモが起こったりしていることが国際ニュースで配信されていますが、国土の大部分が砂漠とはいえ、存在感のある、アフリカの大国なのです。

当時のアルジェリアの風景
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19世紀前半から1962年までフランスの支配下に

   アルジェリアは、オスマン・トルコが力を失ってきた19世紀前半から1962年までフランスの支配下にあったので、現在の公式な言語はアルジェリア方言アラビア語とベルベル民族語であるベルベル語ですが、フランス語を話す人も多く、事実上の公用語の一つとなっています。たくさんの民族がそれぞれの言語を持ち、すべての民族と会話するのは結局英語となっている、元英領のインドと似たような状況です。アルジェリアの独立を弾圧した「アルジェリア戦争」は、本国の政権をも揺るがしたフランス近代史の中の大きな汚点ですが、その支配のもと、交通・工業・観光とも大いに発展した側面もあります。逆に、第二次世界大戦中は、本国をドイツに占領され、亡命フランス政府の再起の拠点ともなりました。

   そんな激動の近代史以前、フランス領のアルジェリアに頻繁に足を運んだフランスの作曲家がいました。フランスがアルジェリアに侵攻した5年後、1835年生まれのカミーユ・サン=サーンスです。今日は、彼の「アルジェリア組曲」をとりあげましょう。

   早くから音楽の才能を表し、神童ともてはやされたサン=サーンスは、長じてから、旅を多くするようになりました。体があまり頑健でなく、転地療養を医者から進められていたことと、自作が守旧的だと批判されたり、自らも毒舌の音楽批評家だったため、敵が多く、パリの音楽界においていろいろと心労がつのったからでもあります。遠く、アジア地域のベトナムにまで足を延ばしていますが、特に彼が頻繁に通ったのは、当時フランス領だったアルジェリアでした。

分かりやすく快活な作風がもれなく発揮された

   1873年に初めてアルジェリアを訪れた彼は、その好印象から「オリエンタルの夢」という曲を作曲します。1879年に彼自身の指揮のもと、パリで初演されたその作品を聴いた楽譜出版業者のオーギュスト・デュランは、アルジェリアの印象をもとにした曲を、もっと作るようにサン=サーンスに強く勧めます。

   翌1880年。彼の姿はフランス本国の英仏海峡に面した町、ブーローニュ・シュル・メールにありましたが、作曲を続けることを決心したのです。彼の「お気に入りの旅先」であるアルジェの印象は、遠く離れた北仏の地でも、筆を進める情熱を供給するには十分でした。

   最初に作曲した「オリエンタルの夢」を「夕暮れの夢」と改題して第3楽章とし、第1楽章「前奏曲、アルジェの街が見えてくる」、第2楽章「ムーア風のラプソディ(狂詩曲)」、そして第4楽章「フランス軍隊行進曲」を追加して、前4楽章のオーケストラのための「アルジェリア組曲 Op.60」として完成させるのです。第4楽章の題名に「植民地だったアルジェリア」が垣間見えますが、現在では、この楽章は単独で人気が高く、吹奏楽などでも、演奏されます。また彼自身によってピアノ曲にも編曲されています。

   まだ飛行機の存在しなかった時代、地中海を航行していると、向こうに北アフリカのアルジェリアが見えてくる・・・というわくわく感か感じられる第1楽章、現地の民族的な旋律が織り込まれて、アラビア風味が香る第2楽章、地中海の夕暮れが想像できる第3楽章、そして、軽快な第4楽章・・・と明解で、分かりやすく、快活なサン=サーンスの作風がもれなく発揮されたこの曲は、20分強かかる曲ですが、あたかも旅行記を見ているかの如く、楽しめる作品となっています。

本田聖嗣

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