大滝詠一「Happy Ending」
音楽は生き続ける

   タケ×モリの「誰も知らないJ-POP」

   2020年3月21日、大瀧詠一のデビュー50周年記念アルバム「Happy Ending」が発売になった。と書くと、彼はまだ元気だったんだろうか、と思われる方もいらっしゃるかもしれない。確かに彼は7年前に惜しくも65才で生涯を終えた。でも、毎年、「A LONG VACATION」の発売日で、ゆかりの日となっている3月21日には様々な形でアルバムが発売されている。

   なぜ、そんなに毎年発売出来るのか。答えは簡単だ。これまでに世の中に出ていなかった音源がそれだけあるからということに尽きる。

   大瀧詠一が、なぜ、誰もが一目も二目も置く巨人になったのか。ここまで傑出した存在になったのか、それは、彼の活動の特異さが全てを物語っている。

「Happy Ending」(SMR、アマゾンサイトより)
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無尽蔵の未発表音源

   50周年記念盤「Happy Ending」は、彼が1990年代以降にレコーディングされた音源が収められている。レコーディング中になくなってしまったために歌詞が出来てない新曲や完成した未発表の新曲も2曲ある。でも、多くは「バージョン違い」と呼ばれる曲たちだ。例えば97年の大ヒットシングル「幸せな結末」や03年の「恋するふたり」のアルバムバージョンやテレビやCMで使われたバージョン、更に劇中で使われた歌詞の違うもの、80年代に松田聖子に提供した曲のストリングスバージョン、81年のアルバム「A LONG  VACATION」以来活動を共にする編曲家、井上鑑に提供した曲の彼自身の歌入りのもの。どれも初披露のお宝音源ばかりというアルバムとなっている。

   つまり、それだけ発表されない音源が残されているということが驚くべきことだろう。

   去年は、ライブ嫌いで知られていた彼が唯一、83年に西武球場で行われた唯一のスタジアムライブを収めたライブアルバム「NAIAGARA CONCERT'83」も出た。72年にソロアーティストとして活動を始めてから初めてのライブアルバムだった。それも、レコーディングはされたものの発売されないままになっていたものだ。発売するためにレコーディングするのではない。自分のこだわりをとことん追求するためにレコーディングする。

   50周年記念アルバム「Happy Ending」もそんな彼の活動あってこそだ。

   大瀧詠一の名前が音楽ファンの間で知られるのは、1970年、ロックバンド、はっぴいえんどのヴォーカル・ギター担当としてデビューしてからだ。細野晴臣(B・V)、鈴木茂(G・V)、松本隆(D)の4人組。大瀧詠一を誘ったのは細野晴臣だった。それまでのグループサウンドのバンドとは全く違う、それぞれの楽器の音を重視した洋楽のような音作りと日本の生活や風景を織り込んだ時に文学的な歌詞は、"元祖・日本語のロック"として新しい時代の扉を開けた。活動期間は、わずかに二年半。オリジナルアルバム3枚を残して解散してしまった。

   先駆者は必ずしも同時代的な評価を受けるとは限らない。73年のはっぴいえんどの解散コンサートは文京公会堂という小規模な会場だった。バンド消滅後にこれだけ研究対象になっているバンドは彼らくらいだろう。

   まさに「伝説」だった。

   大瀧詠一のソロ活動はバンド時代の72年から始まっている。一枚目のアルバム「大瀧詠一」にははっぴいえんどのメンバーも加わっている。それは、一時、まことしやかに語られたことのある彼のソロ活動がバンド解散につながった、という説が的外れという証明と言っていい。

   大瀧詠一の名前をいつ知ったのか、というのは世代にもよるだろうし、音楽の聴き方によっても相当に違うはずだ。

   バンド解散後に彼が始めたのが「ナイアガラ」という個人レーベルだった。自宅にスタジオを作り、曲作り、編曲、プロデュース、エンジニア、原盤制作という音源づくりやその管理まで、自分の音楽に関わることを全て手掛けるという画期的なシステム。一人のミュージシャンがそこまでやった例は他にない。

   それぞれに大瀧詠一という名前ではない多羅尾伴内、笛吹童次などの変名を使うという遊び心にも満ちている。アメリカンポップスだけではなく、クレージーキャッツやCMソングの巨人、三木鶏郎の研究家でもあった。

   こうして無尽蔵のように発売される未発表音源もそうした環境があってこそだ。

死後10年先までリリースを計画

   彼が「ナイアガラ」でやろうとしていたのは、「ノベルティソング」。時には「コミックソング」とも呼ばれるユーモアに富んだ歌だ。ヒットチャートに流れるような歌と言うより遊び心のあるポップミュージック。例えば、「サイダー'73、'74、'75」に代表されるCMソングや中南米などのリズムや日本古来の音頭をミックスしたリズムの曲。CMソングがそうであるように一つの曲の長さを変えたりリズムを違えたりという「バージョン違い」の面白さを最初に伝えたのが彼だ。

   その一方で、若手ミュージシャンを世に送り出すというプロデューサーの功績もある。「ナイアガラ」レーベルの第一作が山下達郎のバンド、シュガーベイブだった。70年代、80年代と二作出ている「NAIAGARA TRIANGLE」は、山下達郎、伊藤銀次、佐野元春、杉真理を抜擢したものだった。アマチュア時代のシャネルズをレコーディングに呼んだりもしている。

   ただ、そうした活動が広く支持されていたかというとむしろ逆だ。彼の「CMソングをレコードにしたい」というアイデアは、全てのメジャーなレコード会社からは拒否され、唯一、発売元になったのが、大瀧詠一が最も避けたかったフォークソングで人気になったエレックレコードだった。「スタジオに新しい機材を入れたい」とエレックが倒産した後に契約したコロムビアとは年に4枚という過酷な条件に苦しめられることになった。

   その頃にレコーディングされた音源も、新たに手を加えて「バージョン違い」として何度となく再発売されている。

   そういう意味で、彼の名前を最初に知ったのが81年のアルバム「A LONG VACATION」だったという人が多いのも自然な事だろう。はっぴいえんどの松本隆と8年ぶりに組んだアルバムの曲の多くが「ナイアガラ」時代に陽の目を見なかった曲に手を加えたものだった。60年代のアメリカンポップスの膨大な情報量を下地にして大瀧=松本の二人が作り出した日本語のポップスが何と美しかったことか。チャートは2位。ミリオンセラーとなった。「ナイアガラ」時代のアルバムチャートの最高が77位だったことを思うと、いかに劇的だったかがわかる。2年後の「EACH TIME」はチャート1位を三週間続けた。

   80年代の大瀧詠一の印象の強さは、松田聖子や薬師丸ひろ子、森進一やラッツ&スターに書いた曲もある。松本隆とのコンビは、二人にしか作れない名曲を残している。

   特異なのは、ここからでもある。

   新作アルバムは83年の「EACH TIME」以降出ていない。シングルやCM、ドラマなどの曲を散発的に発表することでしか表立った活動をしていなかった。

   その一方で、アメリカンポップスや日本の歌謡曲の研究に没頭しているようにも見えた。誰も試みたことのない膨大な「日本とアメリカ」の音楽史。もはやその成果を見ることが出来ない、というのが大きな文化的損失だと思ったのは筆者だけではないだろう。

   更に、彼は亡くなった時にすでに10年後のリリースまで計画済みだったという。一年後に出た初のオールタイムベストアルバム「Best Always」も、その後に出ている様々なアルバムも全て生前に練られていたという。

   ここまで自分の音楽人生を長期的に構想していたアーティストも彼だけではないだろうか。

   来年は「A LONG VACATION」の発売40周年。その記念盤の内容というのもすでに10年前に本人からの指示があったのだそうだ。来年を楽しみにしたいと思う。

   人の命には限りがある。

   でも、音楽は生き続ける。

(タケ)

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