私のタワー愛 下重暁子さんは三十数年ぶりに「彼」との逢瀬を

   週刊朝日(11月4日号)の「ときめきは前ぶれもなく」で、下重暁子さんがご自身の「東京タワー愛」を書いている。とりわけ立ち姿へのこだわりが半端ではない。

「久々にときめいた。夜空にすっくと立ったその姿! 私の愛する東京タワーとの御対面である。十月から照明が変わり、オレンジの暖色がメインになった。冬ヴァージョンになったのである」

   港区にある分譲マンションからの景色だ。下重さんが世田谷区の実家を出て、一人暮らしを始めた思い出の場所でもある。「麻布の高台、なだらかな坂を登ると、そこだけ緑があり、離れ小島のような住宅地」...選んだ決め手は、東京タワーだった。2LDKの部屋は低層の3階ながら、ベランダの正面にはタワーが神々しく鎮座していた。

   同じベランダからタワーを眺めるのは三十数年ぶりで、筆致は自ずと「感動の再会」風になる。時系列がやや入り組むが、整理すると以下の通りである。

   上記のマンションが手狭になったため、筆者は三十数年前、現住居であるマンションに越した。その際、麻布の物件を手放すことができず、賃貸用にキープした。借主を数回変えた末、その部屋が折しも仕事場を探していた家主の元に戻って来たと。

「もう離さない...あとは死ぬまで、私の秘密基地として、仕事場や遊び場として使うつもりだ」
昼夜を問わず、どこから見ても「男前」
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人生最後の贅沢

   東京タワーの一望が売り物だが、リビングからだと巨大な電柱が邪魔をする。

「いつかあの電柱を爆破すると何度思ったことだろう。三十数年ぶりに同じ場所に立ったら、まだあった。なぜ地下に埋めないのだろう。こうなるともう東京都の意地悪としか思えない。あとの二部屋の空には邪魔するものがなく、気分が落ち着く」

   なかなかの、というより尋常ならぬ「偏愛」と見た。

   住居である広いほうのマンションも、少しでもタワーが見えることを条件に探したそうだ。最初は遠くに全景が見えていたが、次第に新築ビルや木々に遮られ、すでに下半分は見えない。これも「タワー愛」が改めて燃え上がる背景になったようだ。

「今は、完全な東京タワーと会うことができるのだ。彼はいつも私の傍にいた。仕事場にも寝室にもより添って、リビングでも位置によってはその美しい姿を惜し気もなく見せてくれた」

   そのリビングで句会を催したのは先日のこと。参加者が着いたとたん、当夜のライトアップが始まり、みんな感嘆の声を上げて一斉にスマホを向けたという。

「私だけの恋人。三十数年ぶりの逢瀬はみんなが帰ったらゆっくりと二人きりで...決断してよかった。少々お金はかかったが、人生の最後の贅沢。私が一人占めする」

古びない景色

   新たな住居を探すとき、とりわけ大都市のマンション族にとって、窓やベランダからの眺めは重要な要素である。優先順位は人それぞれだろうが、広さや築年数、周辺環境と並ぶほどの関心を割く向きもあるはずだ。

   私も二度目のパリ勤務でアパートを探すにあたり、エッフェル塔が見えることを最優先した。もちろん予算には限りがあり、結果的には「上半分」で妥協したのだが、あの塔の美しさは足元のアーチを含む下半分にあって...おっと話がそれた。

   東京ならタワーのほか、スカイツリー、レインボーブリッジ、西新宿の超高層ビル群、歌舞伎座あたりが「光るランドマーク」として人気である。1989年に始まるタワーのライトアップを手がけた照明デザイナー、石井幹子さんの大目標は、それまで闇に埋没気味だった夜のタワーを「昼より美しく見せる」だったという。

   1959年にNHKアナウンサーとなり、1968年にフリーに転じた下重さん。親元を離れたのは、ライトアップのずっと前だろうから、照明は鉄骨に据えた暗い電球のみの時代。夜景というより、昼を含めた雄姿に魅せられたのだと想像する。マンションは老朽化しても、そこからの眺望は古びないどころか、タワーを中心に更新されていく。

   それにしても、タワーを「彼」と呼び、恋人にたとえる筆者はロマンチストである。自慢の彼、長身は間近で見上げてこそ映えるのだ。招いた客たちは一様に感嘆し、その美形にカメラを向ける。下重さん、至福の時に違いない。

冨永 格

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