2024年 4月 27日 (土)

【置き去りにされた被災地を歩く】第1回・千葉県旭市
「まさか」の時間に押し寄せた巨大津波 恐怖の経験「語り部」となって伝える

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   約1万9000人の死者・行方不明者を出した2011年3月11日の東日本大震災。かつてない規模の津波は、東北の太平洋沿岸地域を中心に未曾有の被害をもたらした。

   震源地から遠く離れた関東地方にも、津波で大打撃を受けた場所がある。千葉県旭市だ。地震発生から2時間半以上が経過してから押し寄せた大津波が、海岸沿いの飯岡地区を飲み込んだ。震災から1年、「隠れた被災地」ともいえる現地をJ-CASTニュースがたずねた。

避難を徹底していたら被害拡大防げたのでは

旭市飯岡に設置された150戸の仮設住宅で、今も暮らす人々がいる
旭市飯岡に設置された150戸の仮設住宅で、今も暮らす人々がいる

   記者は2012年3月8日、旭市の海沿いの道をたどってみた。大通りは一見、復旧が進んでいるように見える。だが、津波で家屋が流された土地は現在、更地となっているところが多く、住宅地は「くしの歯」が抜けたようでさびしさが漂う。

   大量のがれきは1か所にまとめられて、今も処理作業が続く。液状化が起きた地域も少なくない。かつて砂鉄を採掘した跡地が被害に見舞われ、あちこちで道路工事が行われていた。ブロック塀がゆがんだままの家もある。

   市内の飯岡地区に津波の「第1波」が到達したのは、地震発生から約1時間後だ。海岸に近い家々は浸水し、一時避難した人もいた。

   それほど大きな津波ではなく、いったん波が引いて「落ち着いた」ように見えた。病気の母親と同居する飯岡地区社会福祉協議会会長の仲條富夫さん(64)は、自宅の2階にとどまってやり過ごそうとしていた。1960年のチリ地震の津波も経験していた仲條さんは、感覚的に「大丈夫」と判断したのだ。

   住民がホッとして避難場所から家に戻った後の17時26分、高さ7.6メートルの大津波が飯岡地区に襲いかかった。建物や車を次々と破壊。外に出ていた仲條さんも100メートルほど流されたが間一髪、難を逃れたという。妻や息子、母と家族全員無事だったが、自宅兼工場は全壊。以後、家を再建する2011年12月までは避難所、仮設住宅で不自由な生活を強いられた。

   地震発生から2時間半後の「まさか」の事態。沖合で複数の津波が重なったうえに海底の地形も絡んで巨大化したものとみられている。一度は避難したのに、家に戻ったがために巻き込まれた人たち。避難を徹底していたら被害拡大は防げたのではないか――。そんな思いが、今も仲條さんの心に残る。

   今回の教訓を次世代に伝えていこうとの思いから、2011年8月に「いいおか津波語り継ぐ会」を結成した。県内各地に足を運び、津波の経験談を多くの人に披露している。

   「津波警報が出ても、仮に1メートル程度なら『避難するのは大げさじゃないか』と思うかしれません」と仲條さん。自身も今回は「油断」めいた考えがあったことは否定しない。そのうえで

「波が見えてからでは遅い。とにかく、即時避難しなければ身を守れません」

と語気を強め、何度も繰り返した。

津波の対処法を若い世代に理解してほしい

津波が押し寄せた市内の「目那川」の河口付近は、両岸が大きく削り取られたままだ
津波が押し寄せた市内の「目那川」の河口付近は、両岸が大きく削り取られたままだ

   現在、月4回程度「語り継ぐ会」の活動をしている仲條さんは、県内の小学校の防災授業で話した経験が印象に残っているという。津波が起きたら、各人がばらばらに高台へ避難する必要性を訴えたときだ。

   生徒から「家族が取り残されていたら、見捨てなければならないのですか」との質問が飛んだ。仲條さんは「とてもつらいのは分かります。でも災害に情は通じません。まず自分の安全を確保して冷静になり、逃げてくる人には高台から大声で安全な避難場所を指示してあげてください」と諭した。

   後日、生徒から手紙が届いた。帰宅後に仲條さんの話を両親に伝えたところ「その通りだ」と言われ、納得したという。「また津波が発生したらどうすればよいか、若い世代が理解してくれるとうれしい」。

   もうひとつ仲條さんが懸念するのが、災害直後の被災者の受け入れ態勢だ。 仲條さん一家も津波からは逃れたが家を失い、騒然とする中で病気の母親をどこに連れて行けばよいのか、何の情報もなく、一時は途方に暮れた。仮に避難所に入れたとしても、サポートが不備ではお年寄りにとって厳しい生活となる。「例えば『この避難所にはこういう病気の専門医がいる』という仕組みがあらかじめ決まっていれば心強いのでは』と仲條さんは言う。

   非常時に何もかも行政任せにしても、細かな対応は期待できない。そこであらかじめ自治会ごとに災害が発生した際の「動き方」を決めておき、行政と連携しておくことを仲條さんは提案する。自治会単位なら近所の人たちの家族構成や健康状態といった事情を把握している可能性が高く、災害時に的確な支援ができるからだ。

   仮設での生活も課題があるという。中でもひとり暮らしのお年寄りは孤立しがちで、先の見えない日々に気力が低下する恐れがある。「だからこそ周りが声をかけると同時に、行政も全体の支援がいったん落ち着いたら、次の段階として個別に困っている人へきめ細かく配慮してもらえれば」と仲條さんは願う。

二重三重の苦しみ「知られていない」との嘆き

   旭市では震災で死者13人、行方不明者2人を出した。千葉県内の死者20人、行方不明者2人だから、大半が旭市だ。全壊家屋は336棟に上る。これほどの損害を及ぼすとは、市民も想像できなかったようだ。

   市内にあるショッピングセンター「サンモール」支配人の柳町年男さんは、「以前は災害イコール火事、台風でした」と話す。建物は立地上、津波の被害はなかった。しかし、大規模の地震だったため顧客を安全な場所に避難させるために社員が対応に追われた。現在では大地震を想定した独自の避難訓練を実施しているという。

   津波や液状化で住宅に被害が出た場合は、条件に合致すれば国や市から支援金が支給されるが、金額として十分とはいえないようだ。津波に破壊されてがれきと化した自宅や車を処分し、土地を整備して家を新築となれば、費用は相当な額に達する。市民の中には「行政の対応が不十分だ」との不満も出ている。

   東北の津波の被害があまりにも大きかったため、旭市の災害に注目が集まりにくいのも事実だ。今も仮設での生活を余儀なくされている人は多い。津波に加えて液状化や、原発事故による放射能被害で農産物や魚介類の出荷に影響が出るなど二重、三重の苦しみを味わいながら、全国的にそれほど知られていないことを嘆く声が、取材を通して聞かれた。

   仲條さんは、以前と同じ土地に再び自宅を構えた。だが周囲には、家を流された後に出来た空き地や、シャッターが閉まったままになっている店が目立つ。転居を決意する住民も少なくないようだ。人が減った影響か、「売り上げが6割程度にまで減った店もあるようです」(仲條さん)。

   終わりの始まり――。震災から1年たった心境を、仲條さんはこう表現した。津波への不安は消えないが、「郷土愛はなくなりません。家族や近所の皆さんと『今度津波がきたら、すぐに逃げよう。その後で戻ってきて住めばいい』と言葉を掛け合っています」と打ち明ける。

   だからこそ、「語り継ぐ会」を通して「津波から身を守るにはどうすればいいか」を広く、多くの人に知ってほしいのだ。仲條さん宅の居間にかかっているカレンダーは、会の行事や近所の人との交流のため予定が連日ビッシリと埋まっていた。

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