「生ぬるい」「家族が報われないだろうが」
2026年6月22日、旭川地裁の法廷に怒号が響いた。
続けて「こんな判決おかしいだろうが」「死刑だろ」などと叫んだ北九州市の自称・配達業の48歳の男は逮捕された。
このとき旭川地裁では、2024年4月に17歳の女子高校生を橋から落下させて殺害したとして、殺人罪などに問われた無職・内田梨瑚被告への裁判員裁判の判決が下されていた。
極刑が下されなかった、非人道的なふたつの事件
内田被告らは被害者を車に監禁、裸にさせて暴行を加え、橋から川に転落させて殺害したという凄惨なもので、すでに共犯の女は懲役23年が確定して服役している。
主犯格とされた内田被告は殺意を否認したが、田中結花裁判長は求刑通り懲役27年を言い渡した。
被害者遺族は、
「残忍で想像を絶するほどの苦痛を受けて命を失った娘への罪が、こんなに軽いものなのか」
とコメントした。
その3日後の6月25日、札幌地裁では北海道・江別市で起きた大学生集団暴行死事件の判決が言い渡された。
2024年10月、江別市の公園で男子大学生に対し、6人が殴る蹴るの暴行を加えて死亡させたうえ、その様子をスマートフォンで動画撮影し、被害者のクレジットカードで弁当、ラーメンを食べたという非道な振るまいが社会を震撼させた。
札幌地裁の高杉昌希裁判長は無期懲役の求刑に対し、主犯格の川村葉音被告に定期刑の上限となる懲役30年を言い渡している。
極刑の適用判断指針となった「永山基準」の「被害者の数」
日本の刑事裁判には、死刑を適用するかどうかの事実上の判断指針がある。
1983年7月8日、最高裁判所が永山則夫連続射殺事件の上告審判決において初めて詳細に明示した死刑適用基準、いわゆる「永山基準」だ。
最高裁判所の裁判主旨には、以下のように書かれている。
死刑制度を存置する現行法制の下では、犯行の罪質、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき、その罪責が誠に重大であつて、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許される。
この永山基準から、被害者数が1人なら無期懲役以下、2人が無期懲役もしくは死刑、という被害者の数による量刑相場が形成されていき、先のふたつの事件もこれに則っているといえるだろう。
しかしもちろん例外もあるし、裁判員裁判制度においては被害者数が1人でも死刑判決が下される事例もある。
だが、裁判員裁判である第一審で死刑判決が言い渡されても、その後に裁判官だけで判断する高裁で無期懲役に覆り、最高裁で確定するケースが続いている。
許されない犯罪だからこそ、司法に感情を持ち込んではいけない
果たして、無期懲役刑、有期刑は「生ぬるい」のだろうか。
たしかに、法律の条文上は、無期懲役受刑者でも服役10年、有期刑については刑期の3分の1を超え、悔悟の情が認められ、再び犯罪をするおそれがないとされれば、仮釈放の申請ができる。
だが、法務省の発表によれば無期懲役の仮釈放までの平均期間は30年超え、令和7(2025)年版『犯罪白書』によれば、10年を超える刑期で仮釈放が認められた受刑者のうち94%超が刑期の9割以上を服役していることがわかる。
仮釈放が認められたとしても、有期刑には仮釈放中、無期懲役の場合は生涯にわたって保護観察を受け続けなければならず、順守事項に違反すれば仮釈放が取り消されて再び刑務所に収監されることになる。
それでも、その刑を「生ぬるい」と感じ、死刑や無期懲役でなければ心理的に納得できないという感情は、人間として自然なものだ。
だからこそ逆説的に、司法はその感情に直接応えてはならない。
もし世論の怒りの大きさに比例して量刑が決まるようになれば、世間に注目を集めた事件は極刑になり、報道されなかった事件は軽く扱われるなど、社会への「見え方」次第で人の命の重さが変わるいびつな司法が生まれてしまいかねない。
量刑は、事件の中身によって決まらなければならないし、感情の熱量によって決まってはならないのである。
永山基準が40年以上にわたって参照され続けているのも、司法の一貫した公平性を守るためだ。
遺族の苦しみを前に、司法の論理は冷たく映るかもしれない。
しかし「死刑にすれば解決だ」という感情論に飲み込まれることは、被害者の命を正面から悼むことにはならない。
感情論から離れ、量刑と社会正義のあり方を問う議論へと昇華させることが必要なのではないだろうか。