2018年 12月 14日 (金)

荒木一郎、6月になると
思い出すアーティスト

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   タケ×モリの「誰も知らないJ-POP」

   それはあたかも「伝言ゲーム」のようなものかもしれない。間に介在する人の数が増えることで、最初の言葉が少しづつ変わっていく。人の数や時が経つに連れてその「誤差」が広がって行く。気づいた時には全く違う言葉になっている。

   音楽の伝わり方もそれに近いものがあるのかもしれない。その時代には同じように称されていたものの、いつのまにか一方が年々脚光を浴びてゆき、片や人々の記憶からも薄れていくようになる。

荒木一郎「君に捧げるほろ苦いブルース」(アマゾンHPより)
荒木一郎「君に捧げるほろ苦いブルース」(アマゾンHPより)

「自作自演歌手」

   6月になるとふっと思い出すアーティストがいる。

   荒木一郎である。

   なぜ6月になると彼のことを思い出すのか。

   簡単である。好きな曲があるからだ。1975年に発売された彼のシングル「君に捧げるほろ苦いブルース」の中に、こんな一節がある。

   「六月の空を見ればまぶしすぎる僕だよ」

   60年代後半、日本の大衆音楽は二つの「革命」を経験した。一つは「エレキ」だ。ベンチャーズに始まったエレキギターのブームは、ビートルズやローリングストーンズに象徴されるイギリスのロックバンドが登場することによって日本でも爆発的な現象になった。そんな流れの「黒船襲来」となったのが66年6月のビートルズ来日だった。

   もう一つが「自作自演」である。自分で詞も曲も書いて自ら歌うスタイルは当時そう呼ばれた。70年代に定着した「シンガー・ソングライター」という言葉はまだ日本に入ってきていない。

   作詞家・作曲家・歌手というそれぞれがレコード会社の専属という分業の時代に、すべてを一人でやってしまう若者の登場。66年9月に「空に星があるように」でデビューした荒木一郎は、レコード大賞の最優秀新人賞を受賞。彼のことを紹介する新聞記事の見出しに決まって使われていたのが「自作自演歌手」だった。その時、同じように新人賞を受賞した女性が加藤登紀子。最終的にレコード大賞は取れなかったものの下馬評で最も有力だったのが加山雄三の「君といつまでも」である。大賞は橋幸夫の「霧氷」。これは余談になるのだが、加山雄三の「君といつまでも」が選ばれなかったのは、事前に「自分は映画俳優」と発言していたことが影響した、と当時の審査委員、伊奈一男さんに話を聞いたことがある。若者たちにエレキギターを広めた最大の功労者が「若大将・加山雄三」だった。

   荒木一郎は、加山雄三と並ぶ、当時の新しい音楽の象徴的存在だった。

加山雄三とともにその後の「若者たちの歌」の源流

   荒木一郎は1944年生まれ。母親は女優の荒木道子。子供の頃から文学座の舞台を踏み、NHKのテレビドラマ「バス通り裏」の御用聞きの若者でお茶の間に知られるようになった。青山学院の高校時代からジャズバンドを組んでドラムを叩いていた。デビュー曲の「空に星があるように」は、「フォーク」という言葉が世間的に使われるきっかけになったマイク真木の「バラが咲いた」が発売された半年後だ。

   誰でもすぐに弾けるシンプルなコードを使った「バラが咲いた」とは違うアコースティック・ギターの弦の響きとストリングス。季節の移り変わりに託した思春期のセンチメンタルな物思いの抒情。モノローグのようでリズムに寄り添った歌は、それまでにきいたことのない洗練された瑞々しいものだった。そんな音楽がジャズバンドでドラムを叩いていたからこそだったと知るのは相当に後のことだ。

   そういう意味ではロックの加山雄三、ジャズの荒木一郎ということになるのかもしれない。

   いずれにせよ、ザ・フォーク・クルセダーズも岡林信康も吉田拓郎も出る前だ。荒木一郎でギターに目覚めたという若者も多かったのではないだろうか。「空に星があるように」は、名古屋の東海ラジオが制作、全国で放送されていた「星に歌おう」の主題歌。DJは彼だ。若者向けDJトーク番組から生まれた最初のヒット曲と言っていいのではないだろうか。

   その年に出たファーストアルバムのタイトルは「ある若者の歌」。GSも含めたロックバンドに影響を与えていった加山雄三とシンガー・ソングライターの幕開けとなった荒木一郎。その後の「若者たちの歌」の源流に二人がいた。

   ただ、荒木一郎が音楽シーンで活躍していた時間は長くない。才能ある革新的な若者が時に業界の古い手法や体制と衝突し、違う道を歩まざるをえなくなる一例と言っていいのだろう。女性関係のスキャンダルをきっかけに絶頂の69年から3年間、芸能界から「干された」状態で表舞台から姿を消してしまう。その間にもまだ珍しかった自主レーベルを立ち上げたり、プロデュースや俳優としても活動するようになっていた。

   再び、音楽活動に戻るのは74年。既成のレコード会社ではなく69年に音響メーカーが立ち上げた新興のトリオレコ-ド。75年のアルバム「君に捧げるほろ苦いブルース」は、そこでの三作目だった。彼は30代になっていた。

北海道の有線で一位に

   青春の光と影――。

   荒木一郎の音楽は、そういう分け方をすれば「影」ということになるだろう。世の中と折り合いのつかない若者の陰翳感というのだろうか。「ほろ苦いブルース」という言葉に託したもの。ストリングスの情感が似合っていた「空に星があるように」のそこはかとない孤独感の代わりにバンジョーの響きが軽やかなフォークロックのサウンドと「バイバイ」を繰り返す歌詞は、過去に捕らわれず、そこから歩き出そうとする心境を感じさせた。その中での「六月の空はまぶし過ぎる僕」という歌詞が沁みた。

   5月ではなく6月。青葉が目に鮮やかな5月でも梅雨明けの7月でもない。やがて来る梅雨を前にした6月ならではのウエットな「ほろ苦さ」は20代では感じないものではないだろうか。

   東京のメディアでは紹介されることの少なかった「君に捧げるほろ苦いブルース」は、北海道の有線で一位になった。その時に、6月の空のような北海道の音楽ファンの自由度の高さに感銘を受けたことが忘れられない。

   荒木一郎は小説家、プロデューサー、俳優、マジシャン、実業家と様々な肩書を持っている。でも、歌う姿を見ることはまずない。2016年に50周年のライブを渋谷文化村オーチャードホールで一日開いたくらいだ。筆者が最後に見たのは2010年に北沢タウンホールで行った三日間ライブ。その時も8年ぶりだった。もう見ることはないだろう。

   加山雄三は、今年も全国ツアーという形で81歳の元気な姿を見せてくれている。加藤登紀子も50周年を超えて益々意欲的な活動を展開している。

   それは「誤差」ではなく、その後のそれぞれの積み重ねによる必然的な「現実」でもあるのかもしれない。

   でも、今でも6月になるとふっとあの歌が聞きたくなるのは、日々感じる「ほろ苦さ」が年々増しているからでもあるように思う。

(タケ)

タケ×モリ プロフィール

タケは田家秀樹(たけ・ひでき)。音楽評論家、ノンフィクション作家。「ステージを観てないアーティストの評論はしない」を原則とし、40年以上、J-POPシーンを取材し続けている。69年、タウン誌のはしり「新宿プレイマップ」(新都心新宿PR委員会)創刊に参画。「セイ!ヤング」(文化放送)などの音楽番組、若者番組の放送作家、若者雑誌編集長を経て現職。著書に「読むJ-POP・1945~2004」(朝日文庫)などアーテイスト関連、音楽史など多数。「FM NACK5」「FM COCOLO」「TOKYO FM」などで音楽番組パーソナリテイ。放送作家としては「イムジン河2001」(NACK5)で民間放送連盟賞最優秀賞受賞、受賞作多数。ホームページは、http://takehideki.jimdo.com
モリは友人で同じくJ-POPに詳しい。

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