霞ヶ関官僚が読む本
劣化する大衆社会、日本が没落していくのではないかと憂う

「革新幻想の戦後史」(竹内洋著 中央公論新社)

   本書は、「革新幻想」とそれを焚きつけた雰囲気や背後感情を解き口に、戦後史を再検討しようとするものであり、それは本書の帯紙にあるように「左派にあらざればインテリにあらずという空気はどのように醸されたのか」の解明でもある。著者は、自分問題と社会問題のすり合わせという問題意識から、多くの実証データを含む膨大な文献資料に加え、自身の当時の経験や感情も踏まえて分析しており、それが一段とリアリティを高めている。

   質量ともに大著であるが、ユーモアある落ち着いた筆致や、随所にちりばめられたエピソードの面白さもあって、読むほどに興味が増す。とはいえ、一か月がかりで漸く読了したところである。

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敗戦についての感情は「悔恨」だけではなかった


「革新幻想の戦後史」(竹内洋著 中央公論新社)

   著者の著作については、以前この欄で「学歴貴族の栄光と挫折」を紹介した。同書で著者は永井荷風と芥川龍之介から話を始めたが、本書においても著者は予想外のところから筆を起こす。Ⅰ章「悔恨共同体と無念共同体」は、外務省で吉田茂の3期後輩で戦前に三度外相を務めた有田八郎が社会党から都知事選に出馬する話から始まる。そして彼と彼の後妻をモデルにした三島由紀夫の「宴のあと」に触れ、次いで有田が佐渡出身であることから同郷の政治家北昤吉(北一輝の弟)に言及する。有田が社会党に転ずるに至った心境の変化を、敗戦に関わる悔恨の感情によるものと分析して、一方の北の無念の感情と対比した上で、戦後史分析の視点として、両者に代表される悔恨共同体と無念共同体のせめぎあいを指摘しつつ、第三の感情である「花(理念)より団子(実益)」感情のせり上がりをも指摘する。あわせて、戦後論壇に君臨した丸山真男の「悔恨共同体論」を、敗戦感情の複数性を遮蔽し、「悔恨」だけ強調したものとして、講和独立当時の世論調査では憲法改正・再軍備賛成の方が多かったというデータを挙げて批判している。

進歩的教育学者たちの醜悪な学会支配

   八つの章それぞれに読み応えがあるのだが、何といっても圧巻はⅢ章「進歩的教育者たち」ではなかろうか。筆者によれば、ごく最近までは(今でもかなりは)教育学者と言えば「進歩的」学者の典型であり、特に東大教育学部は日教組中央講師団の有力メンバーが輩出し、論壇や出版界を闊歩していた。三M教授と呼ばれた三教授が学部の実権を握って人事を壟断し、彼らの理論を批判すると袋叩きを覚悟せざるを得なかったという。著者は、東大教育学部が進歩的教育学者の牙城となったのは、同学部が1949年5月に設立された「ポツダム」学部であって、教員の大量採用の必要から、最初の有力な赴任者の意向によって人事がなされたためだとする。紙幅の関係で詳しく紹介できないが、教育学は著者の専攻分野だけあって、進歩的教育学者たちの人事を通じた醜悪な学会支配や、日教組を通じた教育支配についての分析は迫力がある。

   また、Ⅴ章の「福田恆存の論文と戯曲の波紋」も当時の論壇の雰囲気がわかって興味深い。加えて抜粋引用されている福田の論説が、彼の著作に不案内な筆者には極めて新鮮かつ面白かった。例として、日本の平和論を「屠蘇の杯」で説明する福田の指摘を紹介すると、日本の平和論は、基地における教育問題を、日本の植民地化に、さらに安保条約に、そして資本主義対共産主義という根本問題にまでさかのぼらせる論であり、下から順に大きなものから小さなものへ積み重ねられている屠蘇の盃を、上から次々に大きなものを取っていくようなもので、具体的問題を一般的抽象的  問題に置き換えていく論法だと指摘するものである。

末路は「風潮としての民主主義」

   終章「革新幻想の帰趨」を、著者は横手の石坂洋次郎記念館訪問から筆を起こす。石坂はいうまでもなく戦後のベストセラー作家であり、「青い山脈」をはじめとする彼の大衆モダニズム小説は、広く若者に支持された。著者は、革新幻想は進歩的文化人が旗振りをしたが、それが戦後社会現象となったのは戦後大衆に受け皿が存在したからであり、その受け皿が大衆モダニズムであり、石坂こそが草の根革新幻想のイデオローグであるとする。石坂作品の読者が感じた魅力は民主主義思想というよりも近代的生活流儀であり、農村青年の「社会党支持の方が…スマートでハイカラ」「保守政党の方はわれわれの生活の古さを連想さす」という発言が示すように、草の根革新幻想はスマートやハイカラという生活感覚が社会党支持というイデオロギーに結びついたものであった。

   大衆モダニズムと手を結んだ革新幻想の末路を、著者は、「風潮としての民主主義」すなわちクレーマー社会、お客様社会といわれるものではなかろうかと指摘し、民主主義と教育の大衆化の帰結が大衆エゴイズムだったのかと慨嘆する。そして著者の大衆人への悲観は、「慢心しきったおぼっちゃま」「ニーチェの言う『畜群』(衆愚)へあと一歩の距離」というところまで至る。このような大衆人こそは、革新知識人がみずからの覇権の援軍として、啓蒙し創出しようとした大衆の鬼子なのであった。蓋し卓見である。

   著者の説く通り、進歩的文化人の現代的な姿がテレビのコメンテーターやキャスターであり、彼らが相手とするポストモダンの大衆は「想像された」大衆であって、「大衆の幻像」である。「国民の皆さん」「視聴者」「一般の方々」と言ったところで、人々は街頭でマイクを向けられると、自分が考えていることを言うのではなくて、期待された答えを返すのであり、大衆の意見もまた幻想なのである。著者は、今の日本を、幻像としての大衆からの監視による「大衆幻想国家」であると看破し、「日本人らしさ」の霧散の中で「幻想としての大衆」に引きずられ劣化する大衆社会により日本が没落していくのではないかと憂いつつ、この章を閉じている。

   この大著の結論部に当たる終章の展開については、駆け足感というか気合いに筆が追いつかない感じがあるようにも思う。さすが冷静な著者も、「大衆幻想国家」に憤りを抑えられなかったのか。わかるような気がする。

山科翠(経済官庁 Ⅰ種)

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