百年前、刑事は犯罪集団に立ち向かった 平穏な日本では想像できない物語

■『ブラック・ハンド』(スティーヴン・トールティ著・黒坂敏行訳、早川書房)


   子供を誘拐して身代金を要求する犯罪は、子を持つ親の身からすれば、極めて卑劣かつ忌まわしいものだ。

   米国で、かつてこの犯罪が猛威を振るった時期があったという。20世紀初頭のことだ。被害者はイタリア系移民の成功者。誘拐犯もまたイタリア系であり、脅迫状に黒い手の絵を描く犯罪集団であったことから、マーノ・ネーラ(イタリア語で「黒い手(ブラック・ハンド)」の意)と呼ばれ恐れられたという。誘拐の他にも、殺人や爆破予告を行い、その脅しで繰り返し大金を搾り取って被害者を破綻させ、金を払わない者は見せしめに惨殺、あるいは建物を爆破するなど、暴虐の限りを尽くしたとされる。

   本書は、この犯罪者集団を撲滅するべく奮闘したイタリア系初のニューヨーク市警刑事、ジョゼフ・ペトロシーノの活躍を記したものである。記述は物語風ではなく、当時の新聞記事を引用するなど客観視に努めているが、それでも一介の刑事であるペトロシーノの奮闘に、自ずと畏敬の念が生じる。隠れたる偉人の伝記である。

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「移民と犯罪」というテーマの奥深さ

   現代日本では、身代金誘拐は重大事件として徹底捜査され、検挙率は極めて高いと聞く。だが往時の米国にあって、ブラック・ハンドは当初野放し状態であり、それがこの犯罪集団を増長させた。

   なぜ野放しになったか。事情は複雑だが、イタリア系移民の内部でのこととして米国のマジョリティーが深刻視しなかったこと、イタリア政府が犯罪者の米国移住を事実上黙認していたことの2点が大きい。

   民族的な差別が被差別者を追い込み一部の者を犯罪に走らせることは、古今東西、多くの例がある。犯罪者の「輸出」も、欧州の移民との軋轢(あつれき)を見れば、現代社会でも散見されると言えよう。加えて当時のニューヨークの場合、市政の腐敗も疑われているが、他の都市でも類似の事情はあり得ただろう。

   「移民と犯罪」というテーマは、このように、異文化への寛容さという建前だけでは語れない奥深さがある。本書はこのことを極端な形で提示している。

   そうした絶望的な状況の中にあって、ペトロシーノは市警上層部と粘り強く折衝し、イタリア系捜査隊を編成、この犯罪者集団に立ち向かう。相手は、金の支払いを拒否した資産家を惨殺し、遺体を樽に詰めて路上に放置するような手合いである。ペトロシーノも幾度も脅迫されている。それでもペトロシーノが屈せず闘い抜いたのは、職責上の義務というよりも、イタリア系を犯罪者と決めつける差別と戦い、米国におけるイタリア系の地位を向上させる熱意であった。

   ここに、多民族国家を形成する過程で生じる分断と、これを克服してきた米国史の一面が表れている。白人優越主義的な言説が増えてきた現代米国社会で、このヒーロー物語は恰好の「教材」なのだろう、早速これを映画化しようというのはいかにもハリウッドらしい動きである。

警察力の充実と銃規制

   犯罪の抑止は容易なことではないが、ペトロシーノ率いるイタリア系捜査隊の戦術は巧妙あるいは大胆なものであった。

   受刑者になりすまして同房の者から共犯者情報を聞き出すかと思えば、違法を承知で犯罪者を追い詰め殴り倒すことで、ニューヨークから出ていかざるを得ないようにすることもあった。1990年代のジュリアーノ・ニューヨーク市長によるゼロ・トレランス(軽微な犯罪も徹底して取り締まる厳罰化方針)の先駆けとでも言うべきか。

   犯罪者が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する、社会秩序が崩壊した状況下で、人権擁護をどこまで貫徹しうるか。権力の暴走を食い止める以前に、権力自体が揺らいでいるとき、生身の暴力に生身の暴力で対抗する事態をどう評価するべきか。

   麻薬犯の即時射殺を許可して物議をかもすフィリピンのドゥテルテ大統領が、それでも支持率を維持している所以は、社会の安寧を確保することの重要性を雄弁に物語るが、冤罪で無辜(むこ)の民が突然射殺される不条理は放置されてしまう。

   平穏な日本社会では想像もつかない相克である。

   イタリア系捜査隊の不眠不休の努力があってもなお、ブラック・ハンドの脅迫は続き、被害者の一部は武装して対抗し始める。このくだりを読むと、米国の銃規制が進まない理由も理解できる。警察力による社会秩序の維持が実現しえなかった歴史があれば、市民の自衛が死活的な権利となっても不思議ではない。

   我々はそんな米国社会を後進的と思わなくもない。とはいえ市民の武装解除は、そう簡単なことではない。

   我が国はどう対処してきたか。太閤秀吉による刀狩りと、明治の廃刀令という二回の大規模な武装解除は、安寧な社会文化を我が国に定着させた。これは世界に誇るべき歴史だろう。それでもなお戦中期まで市井には相当量の武器はあったところ、それを一掃したのは他ならぬ米国、GHQの銃砲等所持禁止令であった。こちらは歴史の皮肉と言うべきだろうか。

   百年前にブラック・ハンドが、その後マフィアが台頭した米国では、治安維持の試みは幾度となく頓挫してきた。米国警察には、現代のペトロシーノとも言うべき献身的な刑事も居ることだろう。だが個人の力には限界がある。警察力増強こそが銃規制強化の前提条件だが、そうした動きはどこまであろうか。そして米国社会は銃規制の完成まで、今後どれだけの犠牲者を積み重ね、どれだけの年月をかけなければならないのだろうか。

   本書が示す米国史の一コマから、そうしたことも考えさせられる次第である。

酔漢(経済官庁・Ⅰ種)

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