絵葉書のアルハンブラ宮殿から着想 ドビュッシー「ラ・プエルタ・デル・ビーノ」

   先週は、スペインにまだ足を踏み入れたことがないのに、アンダルシア地方の古都、グラナダへの思いをつのらせ、人気歌曲を書いたララの「グラナダ」をとりあげましたが、今日は、同じグラナダの世界遺産、アルハンブラ宮殿の中の一つの門を描いた曲を取り上げます。

   フランス近代を代表する作曲家、クロード・ドビュッシーの「ラ・プエルタ・デル・ビーノ(葡萄酒の門)」です。彼の後期のピアノ作品である、前奏曲集 第2巻の中の1曲です。

アルハンブラ宮殿の葡萄酒の門、現存している
そこに掲げられているドビュッシーの事に触れたプレート
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作曲家マヌエル・デ・ファリャとの親交

   この曲を書くことになったきっかけは、なんと1枚の絵葉書でした。友人であるスペインの作曲家、マヌエル・デ・ファリャが送ってくれたもので、ドビュッシーはその絵葉書の中の風景を見ただけで、豊かな想像を膨らませ、この曲を書いたのです。

   1862年生まれのドビュッシーは、1895年には「牧神の午後への前奏曲」、1905年には交響的素描と名付けた事実上の交響詩「海」を発表して、フランス作曲界の第1人者となっていました。そして、彼は、フランスの音楽を大きく変えたフランスの作曲家であったにもかかわらず、海外の文化や風俗にもいつも興味をもつ、好奇心旺盛な芸術家でもあったのです。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、地元フランス・パリや英国ロンドンで盛んに開かれた「万国博覧会」などが、ドビュッシーにさまざまなインスピレーションを与えてくれたことは間違いありません。彼は異文化との出会いを自らの作品のモチーフとして積極的に取り入れることによって、ドイツ勢に押されぎみだった「フランスの音楽」の状況を、決して「フランス万歳」という観点からだけでなく、フランス文化が本質的に持つ「多国籍性」を発揮して作品を作り続けることによって名曲を数多く生み出し、大きく発展・前進させたのです。

   1905年にマドリードで音楽教育を受けたファリャが、さらなる修行を積むために、隣国フランス・パリにやってきました。そこで、ドビュッシーをはじめ、当時のフランスの最先端の芸術家たちと交友関係を結んだのです。後に、ドビュッシーが亡くなったあとに、「ドビュッシーの墓碑銘のための讃歌」という曲を追悼のために書いていることからも、二人の親密な関係がうかがえます。そんな親しいファリャから送られた1枚の絵葉書・・・そこに、アルハンブラ宮殿が描かれていたのです。

「この上なく完璧な『スペイン』を曲で表現した」

   全12曲からなる「前奏曲集第2巻」は、ドビュッシーの集大成ともいえる最後期のピアノ作品となりました。題名で先入観を持ってほしくない、との願いから、各曲の末尾にしか題名を書かなかったドビュッシーですが、もちろんそれらはフランス語でした。ただ1曲、「ラ・プエルタ・デル・ビーノ」のみ、現地の言葉であるスペイン語で書かれています。ドビュッシーは、スペインといえば、フランス国境にほど近い北部のバスク地方に少し足を踏み入れた程度ですが、自作のモチーフとしてたびたびスペインの情景を取り入れており、スペイン贔屓だったことをうかがわせます。この時代のフランスは、シャブリエの「狂詩曲スペイン」や、ビゼーの歌劇「カルメン」など、スペインの土地や文化のエキゾチズムが流行となっていたことも影響しているかもしれません。

   「ドビュッシーは、ただのワンフレーズもスペインの民謡などを引用したわけではないのに、この上なく完璧な『スペイン』を曲で表現したのだ!」・・・とファリャに激賞されたこの曲は、歴史の重なりを感じさせる、そしてどこか怪しさが漂う旋律やリズムを持っています。

   現地に足を運んだことがなく、絵葉書を見て書いただけなのに、この曲は評判となり、現在では、グラナダ・アルハンブラ宮殿の葡萄酒の門に、「ドビュッシーによって作曲された」と、プレートが掲げられています。

   芸術は、優れた芸術家の豊かなイマジネーションから生まれ、時として現実を超える・・そんなことを考えてしまう名曲です。

本田聖嗣

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