天才モーツァルトが珍しく書き直した 「弦楽五重奏 第1番 KV.174」

   作曲家は作家と同じく頭の中で作品を作り上げ、それを楽譜に書き付けていきますが、やはり楽譜になってからも、文字の小説などと同じように推敲の作業は必要です。そこで軽微な修正だけでなく、大規模な改変や、後に改作をしてしまう作曲家も少なくありません。

   そんな作曲家の作品の場合、同じ1つの作品でも原版、改訂版、再改訂版・・みたいな形で残されるので、後世の我々は「どの版を演奏するか」が難しい選択となってきます。

   そんな中にあって、「楽譜に書きつけるときはすでに完璧。すべて頭の中で曲を完成してから、譜面に向かう天才」と評されたW.A.モーツァルトが珍しく「書き直した」作品を、今回は取り上げましょう。弦楽五重奏曲 第1番 Kv.174です。

モーツァルトが13歳の頃、イタリアで書かれたといわれる肖像画
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低音のチェロではなく「中音域」のヴィオラを増やす

   弦楽五重奏、というジャンルは少々特殊です。弦楽室内楽の完成形にして理想形ともいわれる弦楽四重奏、ヴァイオリン2台にヴィオラ1台、そしてチェロ1台という編成にもう1つ弦楽器を付け加えるわけですが、実は作曲家によって違い、ヴィオラをもう1台加える場合と、チェロを1台加える場合に分かれています。コントラバスを1台加えることもありますが、音域のバランスからごく特殊例です。

   モーツァルトは、弦楽四重奏にヴィオラを1台加えました。そして彼の「弦楽五重奏」はすべてこの編成、すなわちヴァイオリン2台、ヴィオラ2台、チェロ1台で書かれることになります。その出発点としても「第1番」の意義は大きかったと言えましょう。モーツァルトは、低音のチェロを増やすことを選択せず、ヴァイオリンとチェロの間の「中音域」を受け持つヴィオラを増やしたのです。実は、モーツァルトは、この決して目立たない楽器であるヴィオラの扱いがとても上手く、交響曲などの他のジャンルに於いても、ヴィオラに重要な役割を割り当て、とても良い響きを生み出しています。ヴィオラを増やして五重奏にする、というのは彼にとっては当然の選択肢だったのかもしれません。

   ただ、もう一つ、ヴィオラを増やしたもう一つ明確な理由がありました。同じ編成での五重奏を書いた身近な人がいたのです。有名な「ハイドン」ことウィーンやハンガリーで活躍したフランツ・ヨーゼフ・ハイドンの弟で、モーツァルトの故郷ザルツブルクで活躍したヨハン・ミヒヤエル・ハイドンが、同じ編成の弦楽五重奏を生み出していたのです。

ミヒヤエル・ハイドンへの対抗心だった?

   時は1773年、ミヒヤエル・ハイドンは36歳の円熟期で、兄ほどではなくても、才能のある作曲家として、活躍中でした。モーツァルトは後年、彼の交響曲を拝借することもあったぐらいですから、彼への尊敬と信頼があったのだと思いますが、この時はまだ若干17歳でした。そして、音楽の本場、イタリア旅行から帰ってきたところだったのです。

   音楽の本場で実力を上げ、いろいろなスタイルを吸収したモーツァルトが、新ジャンルである「弦楽五重奏」に取り組んだのは、先輩ミヒヤエル・ハイドンへの対抗心、そして、作曲家として本格始動を始めた青年モーツァルトの野心からだとも考えられます。ひょっとしたら、ミヒヤエル・ハイドンだけでなく、その兄ヨーゼフ・ハイドンへの尊敬や思いもあったかもしれません。ウィーンで活躍している「ハイドン」は、後にモーツァルトの才能を高く評価する、まさに「天才は天才を知る」作曲家でもあったのです。

   そして、そういった意気込みからか、モーツァルトは、珍しく「改作」を行ないます。弦楽五重奏 第1番は、1773年の春には書き上げていたのですが、その後ウィーンへの旅行を挟んで、ザルツブルクに帰郷した冬に、第3楽章の真ん中のトリオという部分を書き直し、最終第4楽章は、全面的に書き直してしまったのです。ミヒヤエル・ハイドンの方は、同じ時期に、別の弦楽五重奏曲を生み出していました。

   楽譜に書くときには完璧に出来上がっていて、一切の書き直しをしない・・といわれた天才モーツァルトですが、17歳の作曲家として羽ばたいていく時期には、先輩ハイドンにならい、弦楽五重奏という新しいジャンルに挑み、試行錯誤しながら自分のスキルを高めていったことがうかがえます。

   結果的にこれは自信作となり、楽譜の扉に大きく自署しただけでなく、のちの「就職旅行」であるマンハイム・パリ旅行にも携えていったことが、彼の手紙からわかっています。

   イタリアの香りもする軽快なモーツァルトらしいこの曲は、現代でも弦楽五重奏の代表的レパートリーとして、頻繁に演奏される名曲となっています。

本田聖嗣

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