楽譜は何を伝えているか(6)

   先々週まで辿って来た、「楽譜誕生以前の歴史」をふりかえって整理すると、人類は文明を生み出したのとほぼ同じぐらい、いにしえの時代から、音楽を楽しんだり、使ったりして来ました。

   同じ文明の共同体の中では音楽の共有は耳コピー・口伝えで十分ですし、音楽の作品・・現代風に言えば「曲」が毎回全く同じものである必要はなかったわけです。この辺りは、現代人の我々のカラオケに接する態度を考えれば納得がいきます。楽譜を読めなくても、カラオケは楽しめます。毎回音程が正確な必要も普通の人ならありませんし、歌謡曲なら十分耳コピーで覚えられます。また、カラオケでは二重唱ぐらいまではあっても「合唱」はほぼありません。そもそもマイクの本数が足りません。なので「大勢の人が同時に同じ曲を別のメロディーで歌う」なんてことは無いわけです。また、世界の多くの文明が生み出した音楽は、日本を含め、ほぼ「単旋律音楽」で、歌でハモる・・それも二人ではなく三人、四人、それ以上で・・・などという民族音楽はごくごく例外です。

   そのため、世界は楽譜を生み出してこなかったのです。

聖歌を中世から、現代まで伝えている各地のフランスの教会
聖歌を中世から、現代まで伝えている各地のフランスの教会
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「グレゴリオ聖歌」成立は教皇ではなく王家の意向?

   クラシック音楽のルーツとされる、カトリックの古い典礼音楽、「グレゴリオ聖歌」は、教会改革を推し進めた7世紀のローマ教皇グレゴリウスI世が、欧州の広い地域のカトリック教会で統一された聖歌でミサが行えるよう、取捨選択と編纂と統一を命じた、と信じられていたためにこの名前がつけられました。グレゴリウスI世は実在の教皇ですが、現在ではこの説は「神話」にすぎないと、否定されています。

   キリスト教誕生以前のユダヤ教の典礼音楽にもルーツを見出すことができるカトリック教会の聖歌は、パレスチナの地からローマ帝国に伝わり、ローマで発展し、帝国内の各地で歌われるようになりました。帝国が北部民族の侵入によって弱体化・東西に分裂すると同時に、帝国にとっては「野蛮の地」であった北部ガリア(現在のフランスにあたる地域)の聖歌なども吸収し、次第にローマでレパートリーとしての形がととのった、と考えられています。そして、フランスのカール大帝を始めとするカロリング朝の時期には、世俗権力が広大な地域を支配し、ローマ帝国の復活を夢見て、当時の識字階級であり頭脳であり教育機関であったカトリック教会に、規律を求めて「正しい聖歌のみを歌うように」というような命令があったそうですから、ひょっとしたら教皇ではなく王家の方の意向が強く働き、「グレゴリオ聖歌」が成立してきたのではないか・・とも考えられています。

一人前の聖歌隊員にするには10年以上

   10世紀ごろには、完全にレパートリーが整った教会の聖歌・・繰り返しますが、現代では「グレゴリオ聖歌」と呼ばれていますが、グレゴリウスI世とはあまり関係がありません・・・は、昇階唱、入祭唱、詠唱、奉納唱、聖体拝領唱、応唱、校唱など、それぞれの場面にふさわしいカテゴリーに分けられ、1曲は2~4分ぐらいと短くはあるものの、曲数はカテゴリーごとに100曲以上もありました。これが「正式なもの」として認定されたのです。トータルで、数千曲、そして、不眠不休で歌ったとしても80時間は優にかかるという膨大なレパートリーです。

   教会に礼拝に来る一般市民は、聖歌を多少間違って歌っても許されるかもしれませんが、専門家たる修道士はそういうわけにはいきません。歌う場所も自分のフランチャイズである修道院から、移動しては、近くの教会の数々、遠くの大聖堂・・と様々場所であり、そこで正確な歌唱が要求されるわけです。

   一番問題なのは、それをどうやって、新しい修道士の聖歌隊員に教え込むか、ということでした。レパートリーが決まったわけですから、教会の伝統として後輩に受け継がなければならないのです。一緒に歌って、メロディーとリズムを一曲一曲教え込む、という丁寧な作業を行って、一人を一人前の聖歌隊員にするには、どう少なく見積もっても、10年以上かかりました。確かに、「80時間分、カラオケのレパートリーを覚えよ」と言われたら、10年ぐらいはかかりそうです。

   歌詞は紙に記して「これを覚えておくように」と自習させることができますが、楽譜がない時代、正確に歌を教えるには、口伝しかないわけですから、仕方ありません。

正確であるべき聖歌が教育課程で変質

   ここで問題が二つ起きます。口伝では、正確に伝わらないからこその問題なのですが、人から人へ口伝で、ものを伝える時、どうしても改変が起こってしまう、という点と、同じ人から二人以上の人に口伝で伝えた場合、等しく伝わることがむしろ稀である、ということです。

   正確であるべき聖歌が、教育課程で変質してしまう・・しかも一人の教育に10年もかかるというのに!という問題と、聖歌隊は、独唱もありますが、多くは合唱ですから、大人数にどうやって正確に80時間ものレパートリーを伝えていくか、という問題が起こってきたのです。世俗権力が打ち立てた広大な面積の帝国・・中世のフランク王国などですが、その領土の隅々の教会にまで、「正確な聖歌の歌唱」が求められているのに、です。

   楽譜という「紙に音楽を記す手段」を持っている現代の我々からしたら想像もつかない苦労ですが、中世の聖歌を扱う修道士たちは、この問題に本当に頭を悩ませたのです。

   グレゴリオ聖歌の起源と同じく、由来がはっきりしないのですが、教会の聖歌の正しい歌い方を伝承し、それを各地の教会に届けるための学校、「スコラ・カントルム」というものが設置されます。最初は教皇の地、ローマに、そして次第に各地にも設立されていきます。数多い聖歌を「正しく」管理するだけでなく、その演奏法や演奏形式に関しても、また「ローマ帝国の子孫」を自称する中世の国の隅々まで、目を光らせたのでした。

   この状況が、「楽譜」を生む土台として機能します。

   「楽譜」的なものがなければ、とてもこのような「大量の聖歌を正しい形で欧州各地に届け、伝承させる」という途方もない事業は無理だったといえましょう。

   しかし、それでも、楽譜が形になるまでには、さまざま紆余曲折があるのです。

本田聖嗣

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