ピアノの達人だったグラナドスの演奏効果抜群の曲

   スペイン・カタロニア地方のリェイダに1867年に生まれたエンリケ・グラナドスは、アルベニスなどと並んで、スペインを代表する作曲家です。

   スペインは、欧州の音楽の中心地、イタリア、オーストリア、フランスやドイツと比べると、地理的にも文化的にも「周辺国」だったため、クラシック音楽の歴史の中ではどうしても後進国とならざるを得ませんでした。しかし、19世紀に入り、グラナドスのような音楽家を輩出するようになったのは、これは私見がかなりはいっていますが・・やはり、「一人でオーケストラができる」楽器であるピアノの改良・発達があったからだと思います。高レベルのオーケストラを作ろうと思えば、ハイレベルの演奏家をたくさん集める必要があります。

   21世紀の現代ならば、飛行機で世界中の大抵のところにはいけますので、資金力と政治力さえあれば、辺境の地でも、熟練の演奏家を集めることができますが、飛行機の無い時代、周辺国は、演奏家のレベルも十分と言い難い状況にあったはずです。

グラナドスの肖像
演奏会用アレグロの楽譜、冒頭と結末部分。両方とも派手なパッセージとなっており、演奏効果抜群だが、楽譜から分かる通り、超絶技巧は要求されていない。グラナドスの熟練の作曲術が分かる曲である
演奏会用アレグロの楽譜、冒頭と結末部分。両方とも派手なパッセージとなっており、演奏効果抜群だが、楽譜から分かる通り、超絶技巧は要求されていない。グラナドスの熟練の作曲術が分かる曲である
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作曲家以前に、優秀な演奏家だった

   しかし、ピアニストであれば、練達のピアニストが一人いれば十分です。そして、グラナドスも、その師であるアルベニスも、「スーパーピアニスト」といってよいほどの、素晴らしい腕前のピアニストでした。作曲家以前に、優秀な演奏家だったのです。

   幼い頃から音楽の才能をあらわしたグラナドスは、カタロニアの中心地、バルセロナで、当時最高のピアニストにして作曲家といわれたジュアン・バウティスタ・プジョルに師事することができました。プジョルは、リストと「ピアノ対決」をしたタールベルクの弟子で、新しいピアノ奏法についての本なども書いていました。彼はバルセロナで、グラナドスだけでなく、アルベニス、リッカルド・ヴィニェスといったスペインを代表するピアニストを育てていますから、「国際的に通用するスペインのピアニスト第一世代」といって良いかもしれません。

   ラッキーなことに、若きグラナドスは、バルセロナのもっと美味しいコーヒーを出すといわれるカフェのピアニストという高給のアルバイトにありつきます。同時に、ある実業家に息子の音楽の家庭教師として、法外な値段でやとわれることにもなり、若くして、バルセロナでもっとも稼ぎの良い若き音楽教師になるのです。カフェでは既存曲だけでなく、即興演奏も行い、ピアニストとしてのアウトプットは十分だったのですが、勉強がまだ十分ではないと感じた彼は、師プジョルも学んだ隣国フランス・パリへ、実業家のサポートを受けつつ留学することになります。

「スペインの粋」や「ダンディズム」を感じさせる

   1887年、彼が到着したパリは、まさに近代フランス音楽の絶頂期でした。フランク、サン=サーンス、フォーレ、ドビュッシー、デュカス、ヴァンサン=ダンディ、同郷のアルベニスといった人が活躍していました。残念なことに、私の母校でもある、パリ音楽院にも挑戦するつもりでしたが、病気になってしまい、入試時期を過ぎたらすでに年齢制限オーバー、ということになり入学はできませんでした。しかし、音楽院教授のベリオに個人的に師事することができ、そのクラスメイトにはラヴェルとやはり同郷のヴィニェスがいる・・という華々しさでした。

   フランスでピアニストとしても、作曲家としても十分に学んだグラナドスは、1889年にスペインに戻り、マドリードとバルセロナを拠点に、スペインを代表する作曲家・教育者・ピアニストとして活躍していきます。

   「演奏会用アレグロ」は、そんな彼が1903年に作曲した、文字通り「演奏会用」の華やかな作品です。難易度の割には派手で演奏効果もあり、ピアノに精通したグラナドスならではの、工夫を凝らした華麗なピアノ作品となっています。彼の故郷カタロニアは闘牛の本場ではありませんが、アンダルシア地方の闘牛やフラメンコを思わせるような「スペインの粋」や「ダンディズム」を感じさせるこの曲は、彼の代表曲集「ゴイェスカス」などと並んで、現在でも頻繁に演奏される作品となっています。

本田聖嗣

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