三宅一生さんが明かしていた被爆体験 オバマ大統領に「広島訪問」要請

   広島、長崎に原爆が投下されて77年。被爆者の中には長年、自身の被爆体験を語ることができなかった、という人が少なくない。2022年8月5日に84歳で亡くなった世界的なファッションデザイナー、三宅一生さん(1938~2022)もその一人だった。

広島市の平和記念公園
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原爆の話はしないと決めていた

   三宅さんは小学校一年生の時、広島で被爆した。朝礼が終わって教室に入ったら突然、ドーンときた。衝撃で割れた窓ガラスの破片が頭に刺さった。自宅にいた母親は半身やけど。のちに亡くなった。

   被爆の影響で、小学4年生のときに骨膜炎を発症した。中学のころから、病気の影響で足が悪くなり始めた。デザイナーとして活躍し始めてからも、海外で仕事中に高熱が出て病気が再発、帰国して即刻入院・手術したことがあった。

   しかし、原爆の話はしないと決めていたという。「ピカドンデザイナー」なんて呼ばれたくなかった。原爆を言い訳にしたら情けないと思ったからだ、と読売新聞の2015年のインタビューで語っている。

父は「目の前で見た」

   被爆体験を語ることに躊躇(ちゅうちょ)していた人は少なくない 経済評論家の森永卓郎さん(1957~)の父もその一人だ。

   森永さんは、戦後生まれで戦争を知らない世代だ。テレビで以前、「原爆は地上に落ちたのだと思い込んでいました」と発言したことがあった。その後、父に叱られたという。「上空で落ちたことも知らなかったのか」「俺は目の前で見た」というのだ。

   父は当時、海軍予備学生だった。潜水艦型の人間魚雷に乗り込むことになり、広島の基地で訓練を重ねていた。たまたま洋上に浮上したときに、ハッチを開け、原爆の爆発を目撃したそうだ。その瞬間、被爆していたことになる。戦後50年経って、息子の無知を知って初めてその体験を口にした。

   そのとき、母が悲鳴を上げたという。自分の夫が被爆者だということを知らなかったからだ。父は被爆の事実を隠して結婚した。当時は、被爆者だということが分かれば、結婚しづらかった。

   森永さんは、被爆を隠していた父のことを、自著でそう回想している。

「ヒロシマ」を描けない

   文化勲章を受章した日本画家の平山郁夫さん(1930~2009)は、被爆体験を「作品」として表現することがなかなかできなかった。

   原爆投下時は15歳。広島の中学3年生だった。原爆が落ちた瞬間を、間近で目撃した。たまたま爆風と熱線の直撃を避けられる場所にいたので、奇跡的に助かったが、おびただしい死者と炎上する広島市を目の当たりにした。「世界のおしまいかなと思った」と、NHKアーカイブス「戦争」で語っている。

   画家仲間は、平山さんが被爆者だと知っていた。「原爆を描け」と若いころから盛んに勧められたという。平山さんなら描けるはずの重要なテーマだからだ。しかし、衝撃が大きすぎて、戦後何年たっても描く気になれなかった。

ニューヨークタイムズに寄稿

   三宅さんは2009年7月、自身の被爆体験をニューヨークタイムズへの寄稿で初めて公にした。

「当時、私は7歳。目を閉じれば今も、想像を絶する光景が浮かびます。炸裂(さくれつ)した真っ赤な光、直後にわき上がった黒い雲、逃げまどう人々......。すべて覚えています。母はそれから3年もたたないうち、被爆の影響で亡くなりました」

   その年の4月、オバマ米大統領(当時)がプラハの演説で、核兵器のない世界を目指すと約束したことが、三宅さんが被爆体験を語る引き金になった。寄稿では、大統領に広島訪問を促し、16年に実現した。

   平山さんは、原爆投下から34年もたった1979年になって、ようやく「ヒロシマ」をテーにした大作「広島生変図」を描くことができた。広島の街を焼き尽くす炎の中に不動明王が描かれている。画面全体が真っ赤に塗りつくされた異様な作品だ。

   平山さんはその後、画家としての活動と同時に、世界平和にかかわることが増えた。とくに、「文化財の赤十字」活動は有名だ。戦争や国際紛争などで、世界各地で危機に瀕していた文化財の保存修復、散逸防止に取り組み、国際的にも高く評価された。


   森永さんは著書『なぜ日本だけが成長できないのか』(角川新書)の中で、「私は核兵器をこの世からなくすべきだと考えている」と語っている。そして、被爆国の日本が、核兵器禁止条約に参加しないのは、「対米全面服従によるもの」と断言している。

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