社会科の教科書「常識」が変わった 大化の改新、「イイクニつくろう」今は違う

   新学期になると、学校の教科書が新しくなり、内容も変わる。毎年のように話題になるのが、社会科の教科書だ。かつては常識だった歴史が、新しい研究で様変わり。昭和世代、親の世代が知らない「新説」が、今の社会科の教科書では「通説」「定説」となって登場している。

源頼朝が鎌倉幕府を開いた年は(写真は鶴岡八幡宮)
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「サヘラントロプス・チャデンシス」?

   日本経済新聞は2023年5月6日、「NIKKEIプラス1」の「なんでもランキング」で、「社会の教科書ここが変わった」という記事を掲載した。

   同紙が専門家の協力を得て、「主に現行の中学の社会科の教科書から、1990年度ごろに使っていたものと内容が変わっている点」について28項目のリストを作成。4月上旬、インターネット調査会社を通じ、小学校?高校のころ社会科が好きだった40代、50代の男女1000人に「知らなかった」「意外と感じた」項目を7つ選んでもらった。

   その結果、1位になったのは、「最古の人類は『サヘラントロプス・チャデンシス』」だった。

   アフリカのチャドで2001年、ほぼ完全な形の頭骨の化石が発見された。それが、約700万年前の最古の人類のものと分かり、サヘラントロプス・チャデンシスと名付けられている。「知らなかった」という人が多かったという。

太平洋戦争の始まりは

   2位になったのは、「645年、蘇我蝦夷らを倒したのは乙巳(いっし)の変」。

   中大兄皇子や中臣鎌足らが蘇我蝦夷・入鹿を倒したクーデターは「大化の改新」と覚えた人が多い。しかし、今では、クーデター自体を乙巳の変といい、その後の改革を大化の改新と区別するそうだ。

   3位は、「源頼朝が鎌倉幕府を開いたのは1185年が中心に」。これには諸説あるそうだが、かつての定説「1192年」は、大きく揺らいでいる。「イイクニ(1192年)つくろう鎌倉幕府」は無駄な暗記となった。

   このほか、現代史関係では、10位に、「太平洋戦争の始まりは『マレー半島への上陸とハワイの真珠湾奇襲』」が入っている。

   太平洋戦争は日本の真珠湾攻撃から始まった、と習った人が多い。しかし、実際は直前にマレー半島へ日本陸軍が上陸していた。現在の山川出版社の教科書は、「日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、また同時にイギリス領マレー半島に上陸して太平洋戦争が始まった」と書いているという。

   日経新聞の取材に、中央大の河合元特任教授は「(マレー半島のことを書くことで戦争開始は)日本軍が東南アジアの資源を奪うことも目的だったことが分かる」と話している。

揺らぐ「聖徳太子像」

   日進月歩で研究が進み、過去の常識が変わっていく社会科の教科書。出版界では、いずれも、かなり前から話題になっていた。

   朝日新聞出版は2013年、「週刊 新発見!日本の歴史」(全50巻)を創刊した。この時、同社が発行する「週刊朝日」は、「あなたの常識は間違っている!(前編)『日本の歴史』の こんなにある"新発見!"」という記事を掲載している。

   そこではすでに、「鎌倉幕府の成立は『イイクニつくろう』の1192年ではないし、蘇我入鹿が暗殺された事件は『大化の改新』とは呼ばれない」と書かれている。

   同記事によると、聖徳太子についての「常識」も揺らいでいる。

   太子は、憲法十七条や冠位十二階の制定、遣隋使の派遣など、7世紀に革新的な政治を行った重要人物とされてきたが、今や、実在が疑われるほど影の薄い人物になっているという。

   太子に対する高い評価は『日本書紀』の記述に基づく。しかし、『日本書紀』は、8世紀に律令国家や天皇制の正統性を示すために編さんされた書物であり、内容の信ぴょう性を疑う研究者が多くなっているという。

   そうした研究潮流の変化を反映して、評価も変わった。

   今の定説では、厩戸王という皇子が、推古天皇の即位直後から政治を補佐したが、皇子は蘇我馬子とともに推古天皇を支えた有力王族の一人にすぎない。憲法制定など様々な政策は政権全体で執り行った。

   ところが、死後、彼は「聖徳太子」として信仰の対象になり、聖人として過大評価されることになった・・・。多数の人の業績が、一人に集約された可能性が高い、というわけだ。

   現在の教科書では、「厩戸王(聖徳太子)」などと併記されることが多くなっている。かつて1万円札の顔にもなった肖像画も、本人と断定する根拠がないため、「伝聖徳太子像」と注付きで掲載されている、という。

「昭和生れの歴史知識」は通用しない

   2011年に出版された『こんなに変わった歴史教科書』 (新潮文庫) では、こうした歴史教科書の変化がわかりやすくまとめられている。著者は山本博文・東京大学史料編纂所教授。

   「昭和生れの歴史知識は、平成の世にあっては通用しない。歴史の基礎中の基礎、中学校教科書は、この三十年の間に、驚くほど多くの記述が書き改められている」と、すでに10年余り前に強調。変わりつつある教科書の内容が記されている。

・人類の出現――登場の年代はどんどんさかのぼる
・大和朝廷――「大和政権」と表記するようになった理由
・仁徳天皇陵――世界最大の古墳と習ったはずだが......
・聖徳太子――旧一万円札の肖像は別人?
・江戸時代の身分制度――「士農工商」はなかった
・鎖国――幕府は国を閉じていなかった?

神風は吹かなかった

   なかでも興味深いのは、「モンゴル襲来――2回とも暴風が吹いたのか」。

   これについては、2017年に、一般向けに出版された『蒙古襲来と神風』(中公新書)が詳しい。「元寇」は「神風」で撃退したという長く信じられてきたストーリーに疑問を呈し、修正を促している。

   著者のくまもと文学・歴史館館長の服部英雄さんは2014年、豊富な資料をもとに500ページを超える大著『蒙古襲来』(山川出版社)を出版、旧来説の再検討に迫って注目されていた。

   蒙古襲来についての通説は1274(文永11)年、元の大群が博多湾まで押し寄せたが、突然の暴風で退却した、1281(弘安4)年に再び襲ってきたが、これまた暴風で敵船の多数が沈んで日本が勝った、というものだ。いずれも日本危うし、危機一髪というところで「神風」が吹いたというストーリーだった。

   服部さんは、そうした通説の根拠となった諸史料の解釈を批判的に検証。戦闘に参加した御家人・竹崎季長が描かせた「蒙古襲来絵詞」ほか、良質な同時代史料から真相に迫っている。そして、そもそも文永の襲来では嵐が来ていないこと、弘安の襲来ではたしかに嵐は吹いたが、合戦はその後も続き、相手が劣勢になったから撤退したとみる。

「科学の目」が必要

   元寇については、2020年に出版された『日本史サイエンス』(講談社ブルーバックス)も「科学の目」で分析している。著者の播田安弘さんは船舶設計者。東海大学海洋工学部で非常勤講師などを務めた船の専門家だ。播田さんも、合戦で「神風」が吹いたのではない、という説だ。

   特に興味深いのは、玄界灘や対馬海峡の潮流分析。きわめて流れが速い。蒙古軍の船団は何とか横断できたようだが、問題は船酔い。蒙古軍の三分の一は船酔いで満足に戦えなかった可能性を指摘する。

   蒙古軍にとっては、さらに不都合なことが起きたという。退却の途中、船の修理や休息のため壱岐に立ち寄ったが、ちょうど北西風が強くなる時期。当時の蒙古軍の船だと、錨を下ろしていても、風速15メートル以上になると流されてしまうことを指摘している。結果、大量の船が座礁したと見られ、のちに壱岐で遭難した軍船が100隻、上陸艇30隻が見つかっているという。

   元寇については長年、「八幡愚童訓」という史料が参照されてきた。八幡神の神徳を「童蒙にも理解出来るように説いた」ものだ。鎌倉時代に成立したとされる。元寇の詳しい記述があることで有名だが、「八幡様のご加護」が強調され、それが戦前の「神国」「神風で撃退」につながった、ともいわれている。播田さんによれば、「八幡愚童訓」はいわば寺社勢力のPRのためにつくられたもの。科学の目を通した冷静な分析が必要、と指摘している。

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