【連載】ブロードバンド“闘争”東京めたりっく通信物語
7. かくして「伊那xDSL利用実験連絡会」が発足した

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「あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃
「あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃

   1997年の6月、中川さんたちは我々が何者であるかを確認しに上京したと言ってよいだろう。我々が用意した出し物は、UBAが定期開催していた「インターネット・フォーラム」であり、そこにおいてアレンジしたADSL機器の実演であった。それを実演するのは、ソネット社の社長、小林博昭君である。

   ここではじめて登場する小林君は、後ほど、東京めたりっく通信(TMC)の初代社長というきわめて重要な役割を果たす人物である。

   東京の下町にある当時の進学校都立両国高校の同期生である。在学中はおっちょこちょいでせっかちで、はなから権力には無関心、という点では同じ江戸っ子育ちでよく気が合った。卒業以後は没交渉であったが、ADSLの権威がいると人に紹介され奇遇を喜び合って旧交を温めたのは数ヶ月前のことであった。

   慶應の経済学部を卒業しリコーに入社、モデムビジネスを提唱し、AT&Tとのチャネルを自ら切り開き多大の貢献をしたあとに、ついには脱サラしてベンチャー企業ソネットを興した経歴の持ち主である。

   米国製ADSL機器の輸入販売で一山当てたいと夢を膨らませており、少数ながらすでにパラダイン社製品の販売実績をあげていた。

   UBAが借りた渋谷の貸会場で、彼は確かアメリカ映画によるビデオ・オン・デマンドのデモを実施し、100人ほどの満場の参加者を唸らせる見事なものであった。かの半坂君は実は彼のかつての部下であったこともあり、伊那実験の構想には積極的な協力を取りつけていた。

   その他UBA会員のデモも終り、遠来の伊那の客人を迎え、宴が張られる。

   談論風発の盛り上がりの中で「メタル線でここまでやれるんだ、伊那あいネットで何か始めないわけにはいかないでしょう」という事になった。

   三国志でいう「桃園の誓い」のようなものが交わされた。その誓いとは伊那組は実験参加モニターを集め、市と組合の了承を取り付けること。東京組は、ADSL実験機材を一定数かき集め現地に持ち込むこと。

   実験費用は、勿論手弁当だ。こうして、フォーラムは大成功に終わる。

   この段階で重要人物がプロジェクトに参加する。数理技研社員の梅山伸二君である。そのころ彼は数理技研が山梨県竜王町のソフトパーク建設計画に応え、建設した「オープンシステム研究所」の所長で現地に赴任していた。(ちなみにこの物語の登場人物である孫正義と面識をえたのはこの竜王町においてであった。だが、ソフトバンクは土地は購入したが事業を始めなかった。)

   彼は大学の私の後輩で学生時代からの知り合いであった。大学院を出たが企業に就職する気がなく、アルバイトで数理技研に出入りしているうちに社員になってしまった。

   梅山君こと梅さんは、人一倍インターネットを面白がった。元来、ロケット・エンジンだとかπ(パイ)の計算だとかが飯の種だったのが、そのころはTnetの顧客サービス事業にすっかり嵌まり込んでいた。その梅さんが、ADSLの話をすると「やりましょう」と言ってくれた。これで鬼に金棒。技術者としての集中力と生真面目さは私に欠けている資質だ。その彼をフォーラムに呼んで、私が何を企んでいるか、どんな連中と組もうとしているか、全てさらけ出す。伊那で実験となれば、その細部の指揮は彼に取ってもらうしかない。

   さて、これで大枠は片付いた。後は実験の顔ぶれを揃えることだ。その日以後、私と宮様は在京の実験参加者の獲得に本格的に動き出した。

   肝心のADSLモデムは意気投合したソネットが幾つか貸し出すことを約束してくれた。その他に住友電工、日本電気、住友電設、半坂君のパラダイン・ジャパンにも実験への参加と機器の貸し出しをお願いし了承してくれた。

   どの企業の機器も一対単位で数十万円という時代だ。数は沢山集められないが、それでも20~30はいくだろうと目処が付いた。

   サーバーはUBA会員のサンマイクロシステムズから、そして数理技研からも供出可能だ。通信システムの構築は、梅さんに他の数理社員をつければ、Tnetで十分経験を積んでいるから問題ない。

   最大の難題は、どこかネームバリューのある通信事業者の参加だ。

   このとんでもない企画には大概二の足を踏むだろう。研究関係なら問題ないだろうと考え、前出のFusionの売り込みで知己を得たKDD研究所の幹部の浅見さんが思い浮かんだ。早速、上福岡の研究所を訪問し、実験の趣旨を伝えると、快く了解してもらった。

   次はNTTだ。本体はそもそも有線放送など馬鹿にしているし、自分で立派なアクセス網研究所を筑波に持っている。

   本来ならここを開放して使わせて欲しいが、何をやっても無駄足だろう。それで、本流以外の組織であるNTTデータにはプロジェクトで懇意となっていた浜口常務(後社長)がいたので協賛を依頼するが、社内調査ののち社内には関心なしとのことで結局は断られてしまう。

   こうして忘れもしない炎暑の中7月31日、伊那有線放送電話の集会室で、「伊那xDSL利用実験連絡会」の発足にこぎつけた。そこには20人以上が出席した。地元伊那の関係者はもちろん、同じ長野で有線放送を手がけている上田市、機器販売の契機を求めるADSLメーカー、そして東京から押しかけてきた有象無象の連中達だ。

   今思い出してもなんとも不思議な会議であった。出身、帰属、業種のいずれもばらばらな組織から送り込まれた者も居れば、ただただADSLの実験をやりたいという意欲だけで集まったボランティアの集団もそこにあった。

   予算、指揮系統も全くない。ただやりたい者が集まって良識の範囲内で有線電話放送業務の邪魔にならない限りでやりたいことやる。終われば解散、その成果は参加者が持ち帰ればよい。

   しかしその実験対象たるや、通常の電話線を高速データ通信手段に変貌させる夢の技術であり、日本ではごく一部の関係者を除いて誰も見たことも触ったこともない本邦初公開の技術であり装置である。

   本来、こうしたことは学術研究団体や大企業の肝いりで国家補助金くらい取り付けて実施するものであろうが、だれも資金のことを言い出すものはいなかった。列席したKDD研究所の浅見さんは、これは前代未聞の新方式だと驚きを隠さず、でもこうしたやり方に熱烈な賛意を示した。

   その場で私が起草した実験趣意書について説明をしたが、文案が刺激的すぎ、あっと声が上がるほど"過激"ともたしなめられ、その場で修正を施し了承を取り付けた。

   その後、大まかな連絡会の運営方針を話しあった。押しかけ組の代表責任を私が、地元の代表責任は安江さんが取るという事が決められた。

   ネットワーク全体のインテグレーションは梅さんに頼み、このあと、彼は大木くんという部下と山梨から伊那へ日参して実験世話役を務めつつ様々な測定を実施することとなった。


【著者プロフィール】
東條 巖(とうじょう いわお)株式会社数理技研取締役会長。 1944年、東京深川生まれ。東京大学工学部卒。同大学院中退の後79年、数理技研設立。東京インターネット誕生を経て、99年に東京めたりっく通信株式会社を創設、代表取締役に就任。2002年、株式会社数理技研社長に復帰、後に会長に退く。東京エンジェルズ社長、NextQ会長などを兼務し、ITベンチャー支援育成の日々を送る。

連載にあたってはJ-CASTニュースへ

東京めたりっく通信株式会社
1999年7月設立されたITベンチャー企業。日本のDSL回線(Digital Subscriber Line)を利用したインターネット常時接続サービスの草分け的存在。2001年6月にソフトバンクグループに買収されるまでにゼロからスタートし、全国で4万5千人のADSLユーザーを集めた。

写真
撮影 鷹野 晃
あのときの東京(1999年~2003年)
鷹野晃
写真家高橋曻氏の助手から独立。人物ポートレート、旅などをテーマに、雑誌、企業PR誌を中心に活動。東京を題材とした写真も多く、著書に「夕暮れ東京」(淡交社2007年)がある。

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