2024年 4月 27日 (土)

【連載】ブロードバンド“闘争”東京めたりっく通信物語
6. 農村有線放送電話組合への工作が始まった

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「あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃
「あのときの東京(1999年~2003年)」 撮影 鷹野 晃

   「どの家庭にも1本の電話を」、これが戦後復興から高度成長期にいたる日本国民の熱烈な希求であった。

   これは都会では、もっぱら電電公社により農山村では主として有線放送電話農協により満たされてきたという歴史がある。

   しかし、後者が地域密着の個別有線網内だけの限定サービスであったのに引き換え、前者は全国規模の交換網を持っていたので、全国ダイヤル自動通話へと発展する過程で後者は次第に消えていった。

   それでも、昭和40年代、電話加入者数でいえば、双方がほぼ数百万の規模で拮抗していた時代があったことは意外に知られていない。

   もしあの時、農村有線電話網を横につなげ、交換機能を充実させれば、これはこれで地方主導の全国電話網へと発展し、全国電話会社は1社しか残らないという事態は避けられていた。どんな大胆な発想も在りえただろう。

   想像を逞しくすれば、米国のケーブルテレビジョン会社のように何千という数で地域密着の独立アクセス網として成長できた可能性は十分に考えられる。

   村の単位で通信インフラを備えた日本の農村、これは随分と健全な姿である。

   実際、現在わずかに数十組合単位、総加入者で50万を切るまでに農村特有の地域網は減少しているが、役場や学校や地域の主要個所に無料公衆電話が引かれている姿は全てに対価を求められるNTTの公衆電話と比べると随分心を慰めてくれる風景である。

   もう一つの特徴である放送機能のほうは、テレビの登場と共に一挙に人気を失ったようだ。今では防災放送など行政の一端を担っているに過ぎない。今のままなら、日本流CATV発展の芽も摘まれてしまう。

   では、どうしてNTTの固定電話数千万に対するに有線放送電話50万という決定的な差がついてしまったのか。その主要な原因は、戦後日本がとった国家通信政策にあるといえよう。

   農村有線放送が持つ底知れぬ可能性を発展させるのでなく、相互接続を原則禁止し、国策会社である電電公社1社に広域接続権限を集中したのである。

   これは、国家の意思というより農民蔑視の中央官僚の恣意としかいいようがないであろう。 いかに電電公社あるいはNTTが国家権力から優遇されたかの事例は、電電債の発行と強制購入、電話加入権料7.2万円の預かり金不返還の容認など数限りないが、農村有線放送電話の発展の芽を完全に摘み取ったという通信政策の偏向は、なぜか歴史から抹殺されている。

   そして、この電話通信独占の代償として固定電話のユニバーサル・サービスの義務化が電電公社民営化後のNTTに課せられた。しかしこの義務も、農山村の過疎化とインターネットの全国的普及により、NTT東西の収益構造が危ういとなると、さっさと免責しようとしている。『消されたうえに切り捨てられた』、という感慨を抱く農村有線放送関係者は少なくないはずだ。

   電電公社万能路線が果たして正しいものであったかどうか、歴史総括が今、国民に求められている。

   ところでこのような歴史基盤を持つ組織への、私たちの提案は、おおむね以下のようなものであった。そのときの名乗り、つまり身分証明は、UBA、東京インターネット、あるいは数理技研などマイナーであった。

   はなはだ分りにくくインパクトに欠ける存在証明であるが、そんなことはどうでもよかった。ADSLへの情熱に答えてくれる琴線に触れられれば何とか成るものと思っていた。

1 xDSL(ADSL、SDSL、HDSL等の総称)という、メタル線で数メガビットのスピードが出せる新しい通信伝送装置が開発され、世界の電話事業者の多くはすでにこれを採用し、映像をふくむコンテンツへのインターネットアクセスのサービスを開始している。農村有線放送のメタル線はこれで生き返る、という朗報ではなかろうか。
2 我々は、通信インフラ事業者ではないが、この技術がどんなものか、強い関心をもっている。ISPもやっているしソフトウエア開発もやっている情報通信産業の先進的な企業の集団である。インターネットアクセス料金は極めて高く、需要が伸びない。しかし、既存電話線を使うこの技術が普及すれば、劇的な料金を引き下げる事が可能になり、需要がふくらみ我々の利益に繋がる。
3 NTTがどう取り組むか不明であるが否定的と聞いている。ISDNが捨てられないらしい。また、公共サービス掲げるNTTはその電話通信網を我々には簡単には開放しないだろう。ついては、貴台の有線放送電話網をしばし貸してくれないか、共同で実験をやれないか。ADSLで新サービスを貴台の所で始められれば、NTTに先駆けてブロードバンドサービスを開始できるし、顧客獲得にも結びつくはずで、両者にとって損はない。

   こんな調子で私と宮様は動き出した。果たして有線放送電話業界はどのような反応を示すのか。しかし農業団体への接触の結果は思ってもみない惨憺たるモノだった。

   そもそも有線放送網の事業主体は、殆どが農協であり、利用者の共同出資で運営されている建て前である。

   従って、我々が接触した先の農業団体は全農や農林中央会を通して話をして欲しいと言われた。

   私の銀行関係のコネクションを通して、この中央会のIT部門や企画部門を中心にアポイントメントを取り、何回か執拗な面談を繰り返した。

   ADSLの効用を説くが、殆ど相手にされなかったといってよい。インターネットがそもそも縁遠い話題であった。ADSL技術も簡単には分かってくれないし、無名の我々に対しては怪訝な表情を浮かべ曖昧な対応に終止した。

   CATVや気象ロボットならば国家や自治体の補助金が出るが、そんなスキームがないのでは、と追い返されたりした。当然といえば当然であろう。この筋は脈がないかとあきらめかけた段階で、宮様が農村有線放送協会の存在を突き止めた。

   当時の事務局長をなされていた大久保さんと知り合い、意気投合、早速彼は我々の思惑に関心を持ってくれそうな有望な所を紹介してくれるまでの関係になった。

   行動力抜群の宮様の有望な有線放送事業体への矢継ぎ早の個別訪問が始まる。中央ではなく地方から、ただちに方向が切り替えられた。

   その中で自分のところでやってみたいと真っ先に手を上げたのが伊那市有線放送電話農協、通称「伊那あいネット」であった。驚くべきことにすでにADSLの存在を知っていた。

   通信機器販売のルートから持ち込まれたパラダイン社製のxDSL製品の机上試験を既に済ませていたのである。半坂君という木曾出身のセールスマンが、我々の発想と同様の発想で網を張っているところで、すでにその年の5月頃、伊那あいネットから呼ばれてお披露目は終わっていたのだった。

   話は早かった。私もこの僥倖を天に感謝してさっそく宮様ともども伊那を訪れた。

   どちらかといえば、この身勝手な企画に乗ってくれるなら相手が地の果にいても飛んでいこうとの意気である。

   現場のリーダで参事の中川さん、市職員で有線放送担当役の安江さんが待ち構え暖かく迎えてくれた。両人は、インターネットの現状に明るい人物であり、ADSLが動画コンテンツサービスに使えることに、つまりブロードバンド性(広帯域通信)に注目していたのである。

   1997年春には、地元ISPを引き込んでダイヤルアッ方式のインターネット接続サービスを開始したばかりであったが、すでにその先を模索していた。

   NTTへの批判点も一致していた。たちまちに意気投合し、実験の現実性について真剣に相談に乗ってくれた。これはいけるかもしれないと湧き上がる期待をいだいて東京への来訪を約して引き揚げた。


【著者プロフィール】
東條 巖(とうじょう いわお)株式会社数理技研取締役会長。 1944年、東京深川生まれ。東京大学工学部卒。同大学院中退の後79年、数理技研設立。東京インターネット誕生を経て、99年に東京めたりっく通信株式会社を創設、代表取締役に就任。2002年、株式会社数理技研社長に復帰、後に会長に退く。東京エンジェルズ社長、NextQ会長などを兼務し、ITベンチャー支援育成の日々を送る。

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東京めたりっく通信株式会社
1999年7月設立されたITベンチャー企業。日本のDSL回線(Digital Subscriber Line)を利用したインターネット常時接続サービスの草分け的存在。2001年6月にソフトバンクグループに買収されるまでにゼロからスタートし、全国で4万5千人のADSLユーザーを集めた。

写真
撮影 鷹野 晃
あのときの東京(1999年~2003年)
鷹野晃
写真家高橋曻氏の助手から独立。人物ポートレート、旅などをテーマに、雑誌、企業PR誌を中心に活動。東京を題材とした写真も多く、著書に「夕暮れ東京」(淡交社2007年)がある。

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