水俣、三池、そして福島… 「差別がある所に公害や労災が起きる」【岩手・花巻発】

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(ゆいっこ花巻;増子義久)

   甲子園を目指す球児たちの夏―、この時期になると、私のまなうらには炎天下で白球を追う、50年近くも前のグラウンドの光景が鮮やかな輪郭を伴って立ち上がってくる。6月11日、患者・家族に寄り添いながら、水俣病の救済に生涯を捧げた医師の原田正純先生が逝(い)った。享年77歳。先生と私を結びつけた 忘れられない光景があのグラウンドには刻印されている。


   昭和40(1965)年夏、福岡県大牟田市の市営球場では現読売巨人軍の原辰徳監督の父親、貢さんが率いる地元の県立三池工業高校が熱戦を繰り広げていた。県予選を勝ち抜いて全国大会に駒を進めた同校は大方の予想をくつがえし、初出場でいきなり全国制覇という偉業を打ち立てた。総資本対総労働の対決と言 われた「三池闘争」に揺れた炭都・大牟田に久しぶりに明るさが戻った。


   新人記者の初仕事は高校野球の地区予選の取材である。目を見張るような球児たちの活躍に興奮しながら、その一方で私の視線は応援席に陣取るトレパン姿の男たちの一群に釘付けになっていた。目は一様にうつろで、どういうわけか腰にはみんな小さい手帳のようなものをぶら下げていた。何か不釣り合いな光景に私は落ち着かない気持ちだった。


   「ガス患(CO中毒)たい。リハビリを兼ねて応援にきたのさ」と一人がぶっきらぼうな口調で言った。1960年代、日本は「安保と三池」という政治動乱の渦中にあった。その2年前の昭和38(1963)年11月9日、三井三池三川鉱で458人が死亡し、800人以上がCO(一酸化炭素)中毒の後遺症を背負わされた「炭じん爆発」事故が発生した。戦後最悪の炭鉱災害だった。


   野球取材が終わったある日、炭鉱長屋の一角でCO中毒患者の診察に専念する先生にお目にかかった。「企業犯罪が外に向けられるのが公害、うちに向けられるのが労働災害。どちらも表裏一体の関係にあるのです」とその時、先生は言った。水俣病とCO中毒との関係を医学のレベル以前に社会の在りようから捉え直すという視点に度肝(どぎも)をつかれたのを覚えている。


   ある日、先生の診察にお伴したことがあった。狭い長屋のタタミの上には焼け焦げの跡が残り、壁にはへこんだ箇所があった。「半身不随や麻痺、難聴、視神経障害、健忘症、不眠、記銘障害…。CO中毒の後遺症は多彩だが、医学書だけでは症状の細部は分からない。焼け焦げや壁の傷跡を見れば、この患者の症状は一目瞭然です」。腰の手帳も実は物忘れに備えた「メモ帳」だったこともその時、先生に教えていただいた。


   水俣病研究からスタートした先生は、水銀は胎盤を通さないという従来の定説を覆して「胎児性水俣病」の存在を立証した。その後、化学工場が林立する大牟田市の有明海で水俣病に酷似した患者が出たことがあった。「水俣病の疑いが濃厚である」という先生の主張に対し、当時の精神医学会は「有明海に流出しているのは無機水銀で、水俣病を引き起こした有機水銀とは違う」としてこれを却下した。


   1960年代後半、カナダ・オンタリオ州の先住民居留区で水俣病症状を訴える人が続出した。先生が現地検診した結果、「上流の化成ソーダ工場から流れ出た無機水銀が河川の中で有機化したことによる発症だ」と断定され、「カナダ水俣病」と命名された。「公害や労災が起きて差別が生まれるのではない。差別がある所に公害や労災が起きるのだ」と先生は口癖のように言っていた。水俣、三池、カナダ先住民…。先生の執念がそのことを次々に暴いていった。その矛先は大震災後、当然のように福島第1原発の事故に向けられた。


   「原発が本当に安全なのなら、わざわざ過疎地に造らず、送電コストがかからない都会の真ん中に造ればいい。しかし水俣病は都会では起きず、原発は大都市にはない。公害は社会的、政治的に弱い人たちに集中する」「放射性物質を海に流せば拡散して薄まるから大丈夫という学者がいる。とんでもない。海で薄まった毒が食物連鎖で濃縮され水俣病が発生した。有機水銀と放射性物質の違いがあるとはいえ、都合が良すぎる。水俣病から何を学んだのか」(2012年2月3日 付西日本新聞)


   東日本大震災が発生した昨年10月、先生からずっしりと重い宅急便が届いた。自著『水俣の赤い海』(2006年、フレ-ベル刊)が30冊入っていた。水俣病の軌跡を子ども向けに書いた本である。間には「今度の大震災にあったみんなのこと考えたときに、水俣のこどもたちのことを知って勇気をだしてもらいたいと思いました」というメッセ-ジが挟んであった。ゆいっこ花巻では被災地支援を続けながら、先生の贈り物を子どもたちに届けた。


   三池CO中毒事件を追った拙著『三井地獄からはい上がれ』(1975年)のあとがきに当時、熊本大学医学部の助教授だった先生の言葉が残されている。


   「医者、とくに精神医学たずさわる者に要請されるのはまず、患者の家に足を運ぶことである。そこで初めて患者家族の苦悶がつかめるのであり、その苦悶の中からしか真の医学は生まれない」。どんな状況下でも「寄り添う」ことの大切さを先生は教えているのであろう。ひょっとすると、この言葉は先生が私たち支援者に残した遺言状なのかも知れない。


   原田正純先生、ありがとうございました。

そして、さようなら―合掌



ゆいっこ
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