2024年 4月 26日 (金)

【震災6年 ふるさとの今(1) 福島県飯舘村】
思い出が詰まった村、でも帰らない 避難生活の末に下した人生の選択

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   今年も3月11日がやってきた。東日本大震災では津波や原発事故で、多くの地域が大きなダメージを負い、姿が変わってしまった。

   震災後は生まれ育った地域を離れる人、地元に残る選択をした人に分かれた。J-CASTニュースでは6年目の春を迎えた東北各地で、被災した人々が今、ふるさととどう向き合っているかを取材した。

  • 郡山市内で社会人として奮闘する田村さん
    郡山市内で社会人として奮闘する田村さん
  • 震災前に田村さんが撮った飯舘村の風景
    震災前に田村さんが撮った飯舘村の風景
  • 震災前に田村さんが撮った飯舘村の風景
    震災前に田村さんが撮った飯舘村の風景
  • 郡山市内で社会人として奮闘する田村さん
  • 震災前に田村さんが撮った飯舘村の風景
  • 震災前に田村さんが撮った飯舘村の風景

「すぐに戻れる」と思って村を離れたが...

   緑豊かな自然に囲まれた、福島県飯舘村。田村裕亮さん(24)にとって、生まれ育ったふるさとだ。2017年3月31日午前0時、飯舘村の大半の地域では避難指示が解除される。だが、田村さんは村に帰らない。

   現在、郡山市内の会社に勤める田村さんは震災当時、高校2年生だった。自宅からバスと自転車を乗り継いで、南相馬市にある県立原町高校に通学していた。授業中に地震が発生し、生徒は校庭に避難。友人の親の車で自宅に送り届けてもらった頃は、既に周りが暗くなっていた。そして3月12日、東京電力福島第一原発の事故が起きる。田村さんの両親は郡山市に住む親類に電話して、家族全員の一時避難を願い出た。翌13日には自主的に村を離れたが、当時は避難が長期化するとは考えもしなかった。

「ほとんど何も持たずに家を出ました。『すぐに戻れる』と思っていたのです」

   だが、原発事故は深刻さを増していく。親類の家に1週間身を寄せた後、田村さん自身は当時郡山市内に住んでいた兄のもとに移った。その後、両親が福島市内にアパートを借り、田村さんは祖母と同居することになる。原発事故後しばらくの間は村に立ち入れたので、両親は実家に戻っていたが、2011年4月22日に政府が「計画的避難区域」として飯舘村全域を設定すると、田村さんらと合流して福島市のアパートで一緒に住むことになった。

   震災がなければ、母校で4月から高校3年生に進級するはずだったが、福島市に避難したことで「転学」を余儀なくされた。だが田村さんと同じ境遇の高校生が多く、手続きや準備に時間を要し、ようやく通学を始めたのは5月に入ってからだった。このころはまだ、「高校卒業するまでにはすべて解決して、また飯舘に帰れるかな」と希望を持っていたという。

飯舘の景色は変わり過ぎていた

   飯舘村は2012年7月17日、多くの地域が「居住制限区域」に指定された。村内では「避難指示解除準備区域」と「帰宅困難区域」に区分された場所もあったが、田村さんの実家がある地域は居住制限区域に含まれ、住民は、原則宿泊を伴わない一時的な帰宅が認められた。2012年4月に大学へ進学した田村さんは、墓参のため在学中に何度か両親と村を訪れた。当初は「懐かしい。早く行きたい」と胸を躍らせたが、変貌していくふるさとの様子に心を痛めた。

「寂しかった。人の気配がなく、景色が変わり過ぎていました」

   自宅周辺に広がる水田には多くのクレーン車が入り込み、除染のため削り取られた表土を詰めた黒い「フレコンバッグ」が山と積まれた、異様な光景。緑が広がっていたかつての姿はなく、至る所で土が掘り返されていた。「ここは、もう人が住むことができないんだな」と感じた。さらに自分も「飯舘に定住することはないな」との考えが、頭をよぎった。

   家族全員、福島市や郡山市での暮らしが長くなるにつれて、生活の基盤が村から離れてしまった。震災前は近所同士の交流が頻繁だったが、隣人たちも田村家同様に県内外へ避難したため、次第に音信が途絶えていった。

   大学卒業直前となる2016年初め、両親から「福島市内に土地を買って、家を建てる」と聞かされた。飯舘出身の両親が下した「村を離れる」という決断は重い。この時、田村さん自身も「飯舘村には戻らない」との気持ちが明確になったという。田村さんにとって何より大切なのは、家族の存在だ。たとえ17年間暮らしたふるさとでも、戻るのが自分ひとりだけでは、家族がそろっていなければ、意味がない――。

「大きな決断でした。でも、家族全員で話し合って決めたこと。福島市に移り住もうという話になった時に、みんな同意しました。場所がどこであれ、家族が元気で、そこに戻ることができるのが僕にとっては一番なんです」

「村への愛着は今もあります」

   2016年春に郡山市内の会社に就職した田村さんは、社会人として忙しい毎日だ。2017年3月31日には、田村さんが住んでいた地域の避難指示が解除される。だが、田村さんの「村に帰らず、郡山での生活を続けていく」という気持ちは揺るがない。

   田村さんは、飯舘出身の若者として決して例外ではない。復興庁が2017年3月7日に発表した「原子力被災自治体における住民意向調査」を見ると、飯舘村住民の「帰還の意向」は、29歳以下の場合「戻らないと決めている」が50.0%に達し、「戻りたい」の10.0%を圧倒した。

   では、今の飯舘村は田村さんにとってどんな存在か。ふるさとに対する気持ちは変わってしまったのか。しばらく「うーん」と考え込んだ後、こう答えた。

「僕にとって、飯舘が生まれ育った場所である事実は変わりません。思い出は多く、村への愛着は今もあります。しかし現実と未来を考え、郡山での暮らしを選択しました。将来、自分が飯舘の復興のために何かできるなら、もちろん力を尽くしたい」

   最後に田村さんは、飯舘で暮らしていたころの写真を見せてくれた。震災前の2009年、「何の気なしに」撮ったというスナップ写真だ。自宅から少し離れた場所の景色、高校時代の通学路――。懐かしいあの日のふるさとが少しの間、よみがえった。(この連載は随時掲載します)

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