2018年 12月 19日 (水)

保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(21)
昭和天皇が東條内閣をつぶさなかった理由

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   昭和19(1944)年2月以降、戦況はより悪化するのみで日本が勝利を得るというのは、全くあり得ない状況になっていった。

   東條の軍令と軍政を兼ねる独裁的な振る舞いに、昭和天皇も次第に不安と不満を募らせていった。天皇の発言も、戦況の悪化に対する疑問や不安ばかりに変わっていく。それに対して軍令の側を代表することになった東條も嶋田も充分に答えられない。

  • ノンフィクション作家の保阪正康さん
    ノンフィクション作家の保阪正康さん
  • 昭和19(1944)年6月の「あ号作戦」の失敗で東條内閣は退陣に追い込まれた
    昭和19(1944)年6月の「あ号作戦」の失敗で東條内閣は退陣に追い込まれた

戦後になって初めて知った「上奏内容の虚偽」

   東條はつまりは、昭和19年6月の「あ号作戦」(日本海軍と米海軍によるマリアナ沖海戦)の失敗で倒れるのだが、本来ならもっと早くに倒閣していてもいいはずだった。『昭和天皇独白録』によるなら、天皇自身は、「何故私が自ら倒す事に当らなかったか、と云ふ事に付て話さう」と前置きしてその理由を説明している。この内閣が人心を失うのは、三つの原因があったというのだ。それをあげておこう。

   (1)マリアナの失陥(つまりサイパン陥落)

   (2)あまりに憲兵を用いて国民の感情を害したこと

   (3)天皇の表現をそのまま用いると、「東條が余り多くの兼職をもち、多忙を極め 、為に私の気持が東條を経て、全部の官吏に伝らず、又東條の気持も国民に伝らず、評判が悪くなった」という理由があげられている。

   この三つは、確かに当たっている。あえて付け加えれば、天皇のこの発言は昭和21(1946)年3月のことで、まだ東條に対する見方は甘く、不信感はそれほど高くはない。ところが昭和天皇は、これ以後東條を始め軍人たちの人物評を口にすることは全くなかった。むしろ昭和50年代に宮内記者会との会見で、太平洋戦争の責任、あるいは軍人への感想を聞かれた折りには、「名前をあげると遺族もいますし」といった微妙な感想を漏らされている。

   それは具体的に名をあげることは批判に通じるとの認識を持っている事になるからではないかと思われた。実際に昭和天皇は戦後に改めて多くの文献に触れ、さらには関係者の証言もよく確かめていたというのである。そこで軍事上の指導者たちが数多くの嘘や偽りの言を吐いていたことを知ったというのである。昭和天皇は戦後になって初めて自らへの上奏内容の虚偽を確かめたということになる。

   こうしたことは何を物語っているのだろうか。いうまでもなく二つの重要な事実を指摘できる。一つは天皇は軍を支配する大元帥なのだが、陸相で参謀総長の東條や海相で軍令部部長の嶋田繁太郎としか会うことができず、彼らが虚の戦況報告を行なったならば軍内の様子は一切天皇の耳には入ってこないというのである。もう一つは、天皇自身は彼らを罷免する直接の権限を持っていない。遠回しに信を与えていないといった態度で対応する以外にないのだ。

東條辞任直後にクーデター計画浮上

   あえていうと、天皇は当初、東條を更迭するような動きを取らなかった理由に「田中(義一)内閣の苦い経験」があったからとも話している。田中に強い表現で、信用していないと言ったために、田中は恐懼して退任した。その後に急死している。

   戦況が悪化していくときの天皇と政治、軍事指導者たちの関係は、歴史的に多くの不可視の部分がある。それを資料によって可視化していくのは、次代の者の務めとも言えるわけだが、そうすることで歴史の裏側の史実が見えてくる。その中に「事実」を超えた「真実」を見出すことができる。

   東條内閣が倒れたのは、戦況悪化の責任を取ったことになるのだが、むろん天皇の目で見るのと、東條の側から見るのとは全く異なっている。天皇は、東條が多くの重要な役職を兼ねていることに不安があり、加えて国民の信を失っていることもあり、政府の中に重要人物を入れるべきだと考えていた。統帥部にも重みのある人物を想定していた。

   しかし東條はそのことを充分に理解していなかった。天皇も、前述の『昭和天皇独白録』でそのことを認めていた。戦争指導が東條だけで行われるのは不安という気持ちを東條は分かっていなかったのである。

   逆に東條は、天皇が自分にいくつかの条件を出したのは、重臣たちの陰謀だと考えた。自分をやめさせるために姑息な手段を用いていると受け止めた。その分だけ、東條や軍事指導者たちは重臣を中心とした反東條の動きに怒った。東條が辞任した時に、軍事指導部にいる幕僚たちの中には、クーデターを勧める者もいた。これは戦後になっての東條側近からの直話になるのだが、「戦争の激しくなる時に後ろから足を引っ張るような重臣たちの行動に激怒し、彼らを逮捕して天皇の元から引き離し、戦争遂行に全力を投入すべきだと私たちは考えました」というのだが、こうした東條更迭の動きに天皇の意志があると考えずに重臣たちの妄言に騙されていると見ていたからだ。

   結局、東條はこうしたクーデター計画に頷かなかった。東條は、自分は天皇から信を失ったとを感じていたからである。太平洋戦争下でのこうした機微は数多くある。その図は近代日本が帝国主義的国家を選んだ結果とも言えるが、その半面で帝国主義的道義国家や自由民権国家や連邦制国家につながる地下水脈の動きとも関連があることを、私たちは理解すべきでもある。(第22回に続く)




プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、『昭和陸軍の研究(上下)』、『昭和史の大河を往く』シリーズ、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)など著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。

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