2021年 2月 28日 (日)

外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(28) 欧州のペスト禍は社会や文化をどう変えたか

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   コロナが初確認されて2020年12月8日で1年。4日には世界の感染が6500万人、死者が150万人を突破し、なおも拡大が続いている。疫病は文化や精神をどう変えるのか。欧州のペスト史研究の第一人者と、イタリア・ルネサンス文化論に詳しい文学者に話をうかがった。

  •                        (コラージュ:山井教雄)
                           (コラージュ:山井教雄)
  •                        (コラージュ:山井教雄)

ペスト史研究家・石坂尚武さんに聞くペスト禍

   欧州のペスト禍はどのように歴史を変えたのか。12月6日、同志社大名誉教授の石坂尚武さん(73)にZOOMでお話をうかがった。石坂さんは同志社大を卒業後、大学院修士課程で2年間文化史を学んだ後、中学・高校で23年間教鞭を執り、その間、大学院で博士号(「論文博士」)を取得。1995年に同大に助教授として着任し、数年後に本格的に欧州のペストの研究に取り組むようになった。以後20年間、毎年1、2回はイタリアを中心に欧州を回り、各地の教会に残るペスト関係のフレスコ画などの美術作品を調査した。調査した教会は800を超える。教会は「美術館」であり「史料館」でもあるからだ。一方、現地の古文書館や内外の図書館などでペスト関係の文字史料を60点以上集めて翻訳をした。その成果は、ライフワークともいえる800頁もの編著「イタリアの黒死病関係史料集」(刀水書房)(「日本翻訳家協会翻訳特別賞」受賞)や、膨大な書簡や生活記録、公文書などから「心性史」を読み解く「苦難と心性 イタリア・ルネサンス期の黒死病」(同)などに結実した。

   石坂さんはまず、高校の教科書などに書かれたルネサンスの記述は誤解もしくは誤った俗説だという。俗説とは次のようなものだ。

「ペストによる破滅的な打撃によって強制的に中世の終焉を迎えたヨーロッパに、ルネサンスはようやく自由や開放的な気運をもたらした」(あるウィルス研究者の著書より)

   この俗説のように、中世を「暗黒」、ルネサンスを「光明」に見立てる図式はたしかにわかりやすい。しかし、それは登山をするのに地形変化のよくわかる5万分の1の地図ではなく、大雑把な百万分の1の地図に頼り、重大な史実(地形変化)を無視して、史実を極端に歪めてしまうようなものだ、という。

「善き神」から「峻厳な神」へ

   疫病による人間への影響は、時代の状況や文化によって受け止め方がかなり異なる。その時代の反応を把握するには先入観や俗説を振り払い、虚心にその時代に入り込む必要があると、石坂さんはいう。ペストの流行で人間は神から離れたと見るのは、安易に自己の価値観を歴史の対象に投影させる日本人的な発想という見方だ。

   15、16世紀イタリアのルネサンス期を含め、ペストに襲われた欧州は、むしろ人々の宗教的改心が刺激され、人々はある意味で高い宗教性を獲得した。人々の間では黒死病はただの自然現象の「災害」ではなく、宗教的な意味を帯びて理解された。つまり「神の怒り」「神の罰」とみなされた。疫病や飢饉はまさに「宗教的な事件」だったのである。だから、この災禍に対して人々は宗教的行動をもって対応した。そう石坂さんはいう。

   1300年以降、次々に襲いかかるペスト・飢饉による災禍を目の当たりにしてから、人びとは「神が怒っておられる。これは神罰だ」と認識するようになり、教会への絵画や建築資金等の寄進、巡礼、集団による信仰活動(信心会)、貧民救済などの慈善活動が活発になった。政府の打ち出す政策・条例も宗教的要素を強く帯びるようになり、「高利」という、聖書で神が禁止した行為に対して積極的に取り締まるようになり、悪徳行為である奢侈行為に対しても政府は奢侈禁止令を繰り返し発布していく。特に「自然」に反し神の怒りを招くとされた「同性愛」(ソドミー)や神を冒とくするとされた魔女はしばしば神の摂理に反するとして摘発・迫害されるようになった。近世に「魔女」として処刑された人の数は3万人以上ともいわれる。苦難のペスト期に「スケープゴート」とされた面もあるが、基本的にそれは、特に神の摂理を損なう存在だと理解されたからだ。この時代は、自ら信じる宗教的信念を絶対と信じて、宗教的「非寛容」の精神から、各派、各地域で宗教的争いが熾烈化した。こうしてペスト期の特徴は宗教戦争の多発・激化ということになった。魔女はカトリック、プロテスタントいずれからも迫害される存在だった。そして、ペスト期が過ぎると魔女の処刑はぴたりと止んだ。石坂さんはそう指摘する。

   社会がペスト、すなわち「宗教的事件」によって根底から揺さぶられる時代にはパラダイム(思考の枠組み)自体も根底から変わる。イングランドのウィクリフのようにカトリック教会の制度そのものを根本から見直す宗教思想も現れた。サヴォナローラのように、聖職者が市民の意向から一種の神権政治を委ねられたフィレンツェのような都市もあった。

   ルターの宗教改革もこの線上にある。

   ルターは神罰を前にし、贖罪の必要を訴えるカトリックに対抗して、人はただひたすら祈りに徹して、信仰に励むしかないと、信仰至上主義を教えた。カトリックの重視する贖罪行為(苦行・巡礼・善行・供養ミサ・贖宥状等)は本質的な重要性をもたないとされた。ルターの宗教観がヨーロッパの政治史の動向を激しく変えたのは、ペストという「宗教的事件」によって揺さぶられた背景を前提にしてようやく理解できる。宗教をすべての中心軸にするカルヴァンは市民から招かれ、ジュネーヴで神権政治をおこなったが、これも時代の高い宗教性に基づく、という。

   この時代には、12、13世紀のように温暖な気候から作物が豊かに取れて、人口が急増した時代の「善き神」のイメージは消え去り、1300年頃以後、繰り返される災禍とともに、堕落した人間を罰する神、「峻厳な神」のイメージが強まった、と石坂さんはいう。この時代の人々の考え方や行動は「峻厳な神」のイメージで理解できる。

300年以上もペストが頻発、その終焉は-

   ふつう、教科書や歴史年表などでは、1348年の黒死病だけを取り上げることが多い。だがペスト禍は3~4世紀にも及び、周期的に欧州を襲った。25年ペスト研究を続けてきた石坂さんはこの時期を「ペスト・飢饉期」と呼び、ペストがどのように当時の人々の心性や意思決定に影響したのかを究めてきた。

   史料に恵まれ、ペストの発生が特定しやすいドイツの都市ヒルデスハイムではペストは3世紀間(1350年~1658年。309年間)に「54回」も発生している。これは「5・6年」の間に1回の周期だ。加えて西欧のペスト期に発生した飢饉の周期も「約6年に1回」。ペストはミラノでは、1348年から1528年までには「平均して2年に1回」、16世紀全体で「5・6年に1回」の割合で発生した。

   パリでは、ペストは1348年から1500年の1世紀半の期間に「4年に1回」発生している。このように欧州で「風土病」として定着したペストは小氷期に周期的に反復し、約5年から10年足らずのうちに1度の頻度で繰り返し、大量死をもたらした。それはこの時期の欧州の人口史のグラフからもわかる。

   その例示が欧州における人口の増減を示すグラフだ。人口は12、13世紀にかけて急増し、1300年にピークに達した後、つるべ落としのように急降下する。たとえば人口の増加した中部欧州では1300年から1310年の10年間に、人口千人を超える都市が約300も建設されたが、その直後、ペスト・飢饉で人口は激減した。

   13世紀は気候が温暖な時代だったが、14世紀には地球が小氷期に入り、寒冷化による気候の悪化で飢饉・凶作が続き、当時、交易の8割以上が農業だった欧州に深刻な経済的打撃を与えた。ペストやそれ以外の疫病が追い打ちをかけた。もともと疫病は、栄養不足で弱った人々に襲いかかり、死に至らしめる。その意味で、ペストと飢饉はあくまでセットとして理解すべきだ、と石坂さんはいう。これは地球の寒冷化によるもので、そのダメージは中国の元王朝の滅亡にも作用した。気候の悪化は、人の健康だけでなく、政治・経済、宗教や神観念にも影響を与えたわけだ。

   人口がピークに達した14世紀初頭から1世紀後、イタリアのトスカーナ地方では人口はペストと飢饉によって14世紀初頭の人口の3分の1にまで激減した。人口減は納税者の減少を意味した。国家財政は逼迫し、イタリアの都市国家は増税を課し、それが人々の反発や労働者の内乱を招いた。これは欧州全般、とりわけ14世紀後半に言える傾向だという。

   大都市は領土拡大による財政改善を狙い、戦争を誘発した。こうしてペスト・飢饉・戦争の悪循環が繰り返された。苦難は14世紀の多くの戦争、16世紀のイタリア戦争、17世紀の三十年戦争にも影を落としている、と石坂さんはいう。この時代の戦争がしばしば宗教戦争であったことを考えると、ペスト・飢饉・戦争の三者は、「神」を中心とする一体のものだった。

   ペストの被害を数字で見ると、その怖さは具体的に迫ってくる。

   1348年の「大黒死病」の後、1360年ごろから次々とペストが大流行した。10年ごとに繰り返し流行し、その数は14世紀だけで全部で6回に及んだ。1400年の6度目のフィレンツェのペスト流行時の死亡率は人口の約20%だった。他地域も似た死亡率と考えられる。

   石坂さんによると、フィレンツェの穀物局は、穀物輸入の必要から都市人口を把握してきたが、ペストの反復流行が起きてから、かなり正確に『死者台帳』を記録するようになった。石坂さんは、その台帳の研究を参考に、夏の流行のピーク時の死者数を示した。

6月15日~21日  550人
6月22日~28日  887人
6月29日~7月5日 1177人
7月20日~26日  1015人
7月27日~8月2日 966人
8月3日~10日  746人
8月11日~17日  459人

   当時のフィレンツェの人口は、わずか6万人だった。うち1万2千人もがこのペストで亡くなった。夏頃のピーク時には毎週千人前後が亡くなっており、「死亡率20%」がいかに凄惨でむごたらしいものであったか、臨場感をもって伝わってくる。フィレンツェは14世紀初頭には人は12万人だったが、相次ぐペストと飢饉などで半減したわけだ。

   なぜ長いペスト期は終わったのか。定説はないが、気候変化や予防措置の効果のほかに、ネズミの「生態学的変化」が指摘されていると、石坂さんは指摘する。ペストはネズミに寄生するペストノミが人間の皮膚を刺し、ペスト菌を血液に注入することで感染させる。中近世のペストノミは人間の家や周辺に棲息するクマネズミに寄生していた。クマネズミが大量死すると、栄養分を失ったノミは今度は人間を襲う。

   ところが18世紀初頭になると、西アジア原産の獰猛で大柄のドブネズミが欧州に渡り、小柄なクマネズミを駆逐・殺戮してしまう。このドブネズミはクマネズミと違って人間の居住圏とは距離を置くタイプだった。これがペストの流行を抑えるのに、一定の効果があった、といわれる。

終末論と煉獄観――宗教改革の導火線

   宗教改革以前、大量死に終末意識を刺激された人々は、カトリックの教えに従って改悛したり、生きているうちに贖罪のため慈善活動を始めたりして救済を求めた。「峻厳な神」のイメージから、死後の「煉獄」で科される贖罪は過酷で一層苦しいものになると思われた。遺言書などを通じて自分の魂のために死後におこなう供養ミサを予約することが盛んになった。煉獄の劫罰を恐れるあまり、途方もない数の供養ミサが教会に申請された。ミサのインフレである。供養ミサの増加に象徴される「煉獄への畏怖」の高まりを「煉獄の勝利」と称した研究者もいるほどだ。都市の集団に襲いかかって大量死をもたらすペスト禍は、集団への罰とみなされ、人々の贖罪の形は10万人、20万人単位で集団巡礼をする例まであった、という。

   また、富裕層は高価な「聖遺物」を購入して業火に苦しむ煉獄での滞在期間を短縮しようとした。ヨーロッパを二分することになった宗教改革の直接の発端は、この煉獄(死後の贖罪)の問題だった。煉獄を早く脱出したい願いから贖宥状を購入する動きがあり、贖宥状が煉獄脱出に有効かどうかという宗教問題が宗教改革の火種になった。そう石坂さんは指摘する。

   石坂さんはその著書「どうしてルターの宗教改革は起こったか ペストと社会史から見る」(ナカニシヤ出版)で、ルターの宗教的回心の核心に、ペスト禍で立ち現れた「峻厳な神」のイメージを据えている。

   それを理解するためには、「煉獄」を知る必要がある。人は聖人であれば天国に行き、極悪人であれば地獄に堕ち、永遠に劫罰を受け、抜け出すことはできない。だがいずれでもない中間の人々は、まず死後に「煉獄」に行き、生前の罪の償いや善行に応じて贖(あがな)われ、浄化され、いずれは天国に行ける。さらに遺族ら第三者の供養は、死者の「煉獄」での苦しみの軽減や滞在期間の短縮に有効とされた。ただし地獄に堕ちず、ともかく「煉獄」に行くには死の前の改悛、聖職者による「終油の秘蹟」を済ませておくことが条件だった。

   この「煉獄」は聖書の記述に根拠があるのではなく、12、13世紀に創造された。この「第三の場所」は、恵まれた時代を反映して人を「救済する」ことを目的として聖職者によって創られたものだ。信徒は秘蹟を受けに教会に通い、見返りに奉納や寄進をするようになった。

   12、13世紀には、終油のほかに洗礼、堅信、婚姻、聖体拝領、告解、叙階など合わせて「七つの秘蹟」が広く浸透し、聖職者による秘蹟を受けた人は、いずれ必ず天国に行けると信じられた。目に見える形式化が、「天国に行く道筋」をわかりやすいものにした。教会法で典礼や行事が定められ、儀式は音楽や聖人の持物と共に詳細に規則化された。

   だが、マルティン・ルター(1483~1546)が生きた時代は、ペストが猛威を振い、神が峻厳な相貌を示した時期にあたっていた。しかも「1500年」頃は終末意識が高まり、ルター自身、1505年に二人の弟の命をペストに奪われた。ルターはその疫病死によって、おそらく「峻厳な神」を痛感しただろう、と石坂さんはいう。

   ルターは、父親の強い意向で本来大学で法学研究に進むはずのところを、父に真っ向から反抗して托鉢修道士に転向した。父の激怒は激しかった。2人の息子とともに長男のルターまで神に奪われてしまうからだ。

   この転身は欧州史の大転換点を引き起こす。

   修道士になったものの、告解聴聞師である修道院長から「告解の秘蹟」を受けた青年ルターは、自分の過去の罪を振り返り、聴聞師が与えようとする「赦し」を頑なに拒んだ。あの恐るべき神が、そう簡単に自分を赦してくれることはない。そう思ったからだ、という。ルターは修道士として、俗人の「とりなし役」となり、神に没入しなくてはいけない立場だ。この亀裂が悲劇的な火花となって散った。

   告解聴聞師は「神の代理人」としてルターを赦そうとするが、当の本人は赦されようとしない。これは突き詰めれば、「告解」の成立を不可能にし、カトリック制度、教会の階層秩序を根本から否定することにつながる。そう石坂さんは指摘する。

   ルターが抱く「峻厳な神」の観念による告解の拒否は、カトリックの贖罪の意味そのものや、贖罪を得るための善行などの行為を重視するシステムの本質を根底から覆す。ルターはカトリックの秘蹟や信仰形態そのものに、アンチテーゼを突きつけることになった。こうして彼は、「九十五カ条の論題」や「贖宥の効力を明らかにするための討論」を表し、宗教改革の烽火をあげることになった。

   ルターは、細切れの改悛や赦免を否定し、人の認識の及ばない圧倒的な神を前に、人間の改悛は絶えることなく生涯に及ぶべきものだとした。真の改悛は、聖職者という「とりなし役」を伴って教会という歴史的形成物の下で行われるのではなく、誰も伴わず、一人の個人として日々、生涯にわたって神に向かい合うことで果たされると考えた。神と個人は直接向かい合うものであった。こうした「神秘主義」というべき新しいパラダイムは、エックハルトの流れを汲むものだ。

   救済は善行などの行為によらず、信仰それのみによる。そうした考えからルターは、ペスト期に流行った、現世の罪の贖罪である「供養ミサ」を否定し、教皇が発行する贖宥状についても教皇に来世の霊魂に関わる権限はないとしてその効力を否認した。

   その改革が燎原の火のように広がったのは、ペスト禍に見舞われた欧州の多くの人々が、ルターと同じように、畏怖すべき圧倒的な「峻厳な神」のイメージを心に抱いてからだ、と石坂さんは見ている。ルターはペストや飢饉で苦しむ人々と神観念を共有していたのだ。

「峻厳な神」の支配

   フィレンツェの都市政府の為政者や協議会議員は当時、繰り返されるペスト禍を前に、どうにかしてこの「峻厳な神」の怒りをなだめ、できれば喜んでもらえるような措置を講じようと腐心した。フィレンツェの場合、為政者や協議会の議員は、いずれも市民の代表であった。国家の現世の平和と個人の来世の救済をみな願っていた。

   その一人は1413年の議事録によれば、こう発言したという。

「失政をおこなえば、その結果、神の激怒や偶発事件がもたらされ、それによって我々は破滅しかねないと思う。私は、神の激怒を引き起こしかねない我々の行動を熟慮している」

   そこで取られた措置は、「人間の視点」というより、まさに神のご機嫌を気にして「神の視点」「神の法理」を意識して取られたものだった。こうして、「峻厳な神」を意識した心性、すなわち「ペスト的心性」は、「神の法の支配」を導く。

   15世紀は一般にルネサンスたけなわと見られているが、この時期の為政者や市民は、神から離れるどころか、神にすがっていたのである。ペスト期において法令や判決の核心部にいわば神が「君臨」していた、と石坂さんはいう。

   15世紀のフィレンツェが直面していた重大問題のひとつが人口だ。1330年代に、推計約12万人を数えたフィレンツェの人口は、1401年に4万7000人まで減った。60%もの人口喪失である。

   この問題に対する施策は、一見相互に無関係と思われる次のような法令、政策、判決だった。

 1 ソドミー(同性愛)取締令の発布(1418年)
   女子修道院への男子の立ち入り禁止令
   の発布(1435年)
   キリスト教徒の女性と肉体関係をもっ
   たユダヤ人の処刑(1434、1435年)
   近親相姦の罪を犯した者の処刑1413年)
   魔女の処刑(1427年)
   賭博行為者への処罰の執行(1435年)
   奢侈禁止令の発布(1434年ほか)
 2 インノチェンティ捨子養育院の設立(1419年~1421年)
   疫病病棟の設立(1440~50年頃)
   嫁資公債制度の設置(1425年)

   一見脈絡がないように見えるが、実は、これらの措置の核心部に「峻厳な神」がいた、と石坂さんはいう。ここで分類した「1」は「神を怒らせまいとする措置」(消極的措置)であり、「2」が「神を喜ばせる措置」(積極的措置)であるという。

   第一の措置で、異教徒のユダヤ人がキリスト教徒の女性と性交する行為は。キリスト教の侮辱やカトリック信仰の冒とくにあたる、とされた。近親相姦は「神の威厳」の冒とくであり、キリストと結婚した修道女の住む女子修道院に立ち入ることは、神の摂理への攪乱行為にほかならない。魔女は災厄をもたらし、賭博行為は疫病や害悪をもたらす危険な行為とみなされ、奢侈は「自然に反する」傲慢の罪にあたる、とされた。

   これらの行為は、神の視点から見て、どれも神の怒りを招くがゆえに罰せられた。事実条文では、それで疫病が引き起こされるとはっきり記載されている。

   石坂さんは、こうした措置に「共同責任」の考え方が導入されていることに着目する。都市の誰かが冒とく行為をすれば都市全体が、大量死をもたらす疫病や災害によって罰せられる。都市からひとりでも冒とく者を出せば、それは都市全体の共同責任で神罰を受けるのだ。ドイツにおいてもウルムの参事会(1508年)はペストの大量死を念頭に、「全能なる神はただその罪人個人だけでなく、都市参事会とそれを許した都市全体にも怒りを発し、罰する心配がある」と述べ、ソドミーなどの神の冒とく者を罰することの正当性を主張した。近世に多い迫害、すなわち神の摂理に反した者たち(ソドミー・魔女・ユダヤ人など)の迫害を正当化する論理が、ここにある。石坂さんは、民衆もまた、こうした論理を共有していたという。

   「神の視点」で制定された典型的な法令は反ソドミーの法令だ。誰にも知られない密室においてふつう合意でなされるソドミーは、殺人や傷害など、善良な市民に対して直接危害を加える反社会的な犯罪とは違う。人に迷惑をかける性質のものでない。しかし当時、問題にされたのは、「人間に直接危害を加える反社会性の度合い」ではなく、神の法に対する冒とく、つまり「神に対する冒とく性の度合い」だった。

   たとえ他人に直接的には無害でも、「自然の法」(男と女、雄と雌の交わりなど)に反し、神を冒とくし、神を怒らせ、それによって天災や疫病を引き起こし、大量の人びとの命が奪われる。そうした見地から、「重大な反社会的行為」と考えられたのである。

   「1」の「神を冒とくする行為を罰する法令」が、ただ神を恐れておこなう消極的な行為とするなら、「2」の「神を喜ばせる措置」は、キリスト教的な隣人愛の実践として捨て子を保護し、疫病患者を手当てする施設を建設する「積極的な措置」だ。それを国家レベル(都市集団)でおこなうことは、神を喜ばせるものと考えられた。また、未婚の女性が結婚しやすいように嫁資を援助することも、国家的な慈善行為といえた。

   もちろん、フィレンツェの措置は、宗教的なものばかりではない。人口問題で言えば、人口の増加を狙って無税で新市民を招き入れる法令の発布などもあった。実はフィレンツェの住民のなかのかなりの割合が、ペストによって失った人々の埋め合わせとして14世紀から都市に優遇して迎え入れられた人たちだった。だから実際は、フィレンツの人口はもっと少なかった、と石坂さんはいう。

「俗説」の背景と展望

   ルネサンスは「人間と世界の発見」であり、暗い中世から決別し、近代に向かう出発点になった。あるいは「宗教改革」は、「人間中心」のルネサンスに対するアンチテーゼだった。

   振り返ると私も高校の世界史でそう習った記憶がある。石坂さんが提示する社会史は、そのすべて否定するものではないが、そうした「俗説」とはかなり違う。15世紀から16世紀初頭にかけての社会は、一方では世俗的な利益を追求し、ペトラルカに従って都市での名声と栄光を求めたが、他方で黒死病の宗教的、社会的な危機を迎え、来世の救済を得ようと必死になっていた。ルネサンスの時代にも、人々の信仰心は篤く、宗教活動は盛んだった。こうした「二元主義」的な見方が、石坂さんの「心性史」が切り拓いた史観の特徴といえるだろう。

   例えば日本のある世界史の教科書には。欧州のペストに関する記述は3行で片付けられ、「荘園制を崩壊させた」などと書かれているだけだ。だがイタリアの高校で使う1000年~1648年を扱う「ヨーロッパとその他の世界」という全600ページの教科書にはペスト・飢饉の時代の記述に34ページもの紙幅を割いている。ペスト期を経た人々の子孫には、当時の苦難の記憶がしっかりと継承されているわけだ。

   したがって、ペスト・飢饉を軸に時代区分することによって、ペスト・飢饉が席巻した「中世末・近世」とそれを克服した「近代」という新しい区分を使うことが可能であり、そう提案したい、と石坂さんはいう。ルネサンスや宗教改革を中世と断絶した出来事とみなすのではなく、中世とは切れ目のない一体のものとして扱う考え方だ。この場合、「中近世」はルネサンスや宗教改革、絶対主義までを含み、「近代」とは産業革命やフランス革命などを起点とする時代ということになる。あるいは「前近代」と「近代」という概念を用いる。近世は絶対主義国家の形成、「新大陸」の影響など、別の重要な要素があるが、ペストがもたらした高い宗教性は忘れてはならないだろう。

   石坂さんが、ゼミの学生を指導してルネサンス期の絵画約600点の主題を調べたことがある。宗教画は89%を占めた。残り11%が非宗教画であり、その多くは戦争や肖像を描いたものだった。宗教画で多い順からいえば聖母、聖人、キリストだ。聖母の方が厳しいイメージのキリストより多く描かれているのは興味深いという。

   石坂さんが切り拓いた心性史という分野は、美術や音楽、文学その他の文化だけでなく、暮らしの総体を対象に、暦には記されない時代の心や考え方の奥底にあるパラダイムの変化を、実証的に考証する学問だ。そうした心性史の視点からいえば、「ペスト・飢饉期」は、「神の代理人」であるローマ教皇を頂点として、司祭、修道士らがピラミッドをつくる教会のパラダイム、「カトリック世界」が根底から揺さぶられる時代の転換期だった。 

   では、瞬時に国境を越え、パンデミックと化した今回のコロナ禍は、石坂さんの目にはどう映るのだろう。そう質問すると石坂さんは、高校2年生で経験した1964年の東京五輪を念頭に、次のように語った。

「あの五輪の標語は『世界は一つ 東京オリンピック』でした。冷戦で真っ二つに割れた世界でも、スポーツを通して一つになろう、という願いがこめられていた。今回も、コロナ禍はまさに、皮肉にも、世界を一つにしてしまったともいえる。コロナ禍は、次元の低いこれまでの「大国主義」や「自国優先主義」に冷水を浴びせ、国際協調を中心とするパラダイムに転換する機会をもたらしてほしいと思う。地球人が今回のコロナ禍で痛感した『運命共同体』の意識をもって協調して寄り添えば、これまで考えられなかった新しい世界が開けるのではないでしょうか。例えば、ワクチンの共同購入のために各国が加わる『COVAXファシリティ』の設立は、そうした動向の一つでしょう」

イタリア文学者・澤井繁男さんに聞くルネサンスの光と影

   同じ12月6日、大阪に住むイタリア文学者の澤井繁男さん(66)に話をうかがった。澤井さんは東京外語大のイタリア語学科を卒業し、京都大学大学院文学研究科を修了し、東京外大で論文博士号(学術)を取得。昨年まで長く関西大学で教授を務めた。歴史家の石坂さんとは違って、文学作品を通してイタリア・ルネサンス文化論を研究し、トンマーゾ・カンパネッラなどの翻訳や、ルネサンス研究書など多くの著書を発表してきた。なお今年4月に水声社から刊行されたカンパネッラの「哲学詩集」全訳は今年度、日本翻訳家協会が主催する「翻訳特別賞」を受賞した。

   疫病がルネサンスに与えた影響について、澤井さんが真っ先に挙げた例はボッカッチォの「デカメロン」だった。

   「デカ」はギリシア語で「10」、「メロン」は「日」を指すという。この物語は、若い淑女7人と青年紳士3人が、フィレンツェ郊外の館で延べ10日間にわたり、1日に1話、合わせて100話を仲間に語って聞かせるという構成だ。そこでこの物語集は「十日物語」として昭和2年日本に紹介された(英文学者・戸川秋骨による英訳からの重訳)。

   ボッカッチォがこの物語を書いたのは1351年だったが、物語の設定は1348年、フィレンツェをペスト禍が襲った年にしてある。7人の淑女はペスト禍を避けるために郊外に赴き、知り合いの3人の青年紳士は、その身の安全を守るために随行するという成り行きだ。

   その「第一日まえがき」には、ペスト禍に襲われた人々の断末魔の苦しみや、難を避けるために社交を絶って閉じこもる人、将来を悲観して放縦に走る人など、「日常」が崩れる災厄に直面して人間が見せる様々な側面を、写実的に、臨場感あふれる筆で描いている。

   ボッカッチォは「まえがき」にこの酸鼻なペスト描写を置くことについて、「重苦しい不快な印象を与える」(河出文庫「デカメロン」平川祐弘訳)という懸念を抱きながらも、「苛烈で峻嶮な山」の向こうには、「すばらしく美しい野原が一面にひろがります」といって、読者を物語世界に誘う。

   だがなぜボッカッチォは、この物語に「ペスト禍」という黒い額縁をはめたのか。

   私の疑問に対し、澤井さんは、「価値観の転倒(パラダイム・シフト)」を図り、新しい時代意識で筆を進めるための仕掛けだったろう」と即答した。

「霊魂ではなく、ペストによる急激でむごたらしい『肉体の死』を綿々と綴ったのは、冒頭で読者に強烈な衝撃を与えなければならなかったからでしょう。ペストを導入することによって、作品の場として、価値の転倒した社会という場を想像した。つまり『来世肯定』から『現世肯定』である。価値の転倒した社会という前提があってはじめて、当時の社会の実相でありながら、一見『反社会的』とみられがちな生と性を思う存分描くことができた」

   作家として多くの小説を発表してきた澤井さんはそう指摘する。

   「デカメロン」は「好色」や「肉欲」を赤裸々に描いたと評されることもあるが、澤井さんは、物語の背後に冷厳な死に対する認識が働いていることを見落としてはならない、という。

「死の世界を一方に意識することによって、生の方向はいっそう客体化される。死の視線を通して見られた生の世界は、生に対して貪欲であればあるほど、また性をむさぼればむさぼるほど、虚無的になる。『デカメロン』の生の世界は、虚無的視線があって初めて成立する。死に対する視線で濾過されて描かれた生だからこそ、なおさら鮮明になる生であり性なのだと思う」

   たしかに、語られる物語はきわどい話も多いが、不思議に晴朗で、曇りや濁りを残さない。一日の終わりに一行が連れ立って庭を散策する場面などが挟まると、悲喜劇はすべて浄化され、話の面白さや人の愛すべき滑稽さ、たくましさ、偉大さだけが、心地よい澄明さで心に残る。澤井さんは続ける。

「ボッカッチォはダンテの評伝を書き、初めて神曲の講義をフィレンツェで行った文学者であり、敬虔なキリスト教徒だった。信心の深さという点ではダンテと同じ。ただ、『機智』(ウィット)を重んじ、知と心を中心にした人間描写を描くことで、新しい信仰の形態を打ち出したのではないでしょうか」

   澤井さんによると、「デカメロン」には13世紀末、中世末期に編まれた説話などの散文集「ノヴェッリーノ」など、多くの伝承や口碑が流れ込んでいる。ダンテの「神曲」が、南仏プロバンス地方の言語をトスカーナ地方の言語に精緻化し、イタリア語を確立した「神」の世界の堅牢な構築物であるとするなら、「ボッカッチォ」の「デカメロン」は、人間界に伝わるそれ以前の説話や口碑が流れ込み、巨大な水量を湛えて静まり返る湖のようなものだった、という。

絵画「死の舞踏」が告げるメッセージ

   ルネサンスが真善美を追求する平和で牧歌的な時代だったというのは、虚像に過ぎない、と澤井さんはいう。

   寒冷化に向かい、繰り返しペスト禍や飢饉に襲われただけではない。それは激動と戦乱の時代でもあった。

「当時のイタリアはフィレンツェ共和国、ヴェネツィア共和国、ミラノ公国、ローマ教皇領、ナポリ王国に分かれ、対立していた。オスマン・トルコ帝国によって、東ローマ帝国の首都であるコンスタンティノープルが陥落した1453年、次はイタリアに攻めてくると危機感を募らせた5つの国は、翌年ローディに集まり和議を結び、初めて一枚岩になった。しかし、1494年には、フランスのシャルル8世が過日自国の支配下にあったナポリ王国を奪還したという理由でイタリアに攻め込み、ナポリを奪った。『イタリアの平和』はわずか40年しか続かなかったのです。その間に、フィレンツェだけでなくナポリ、フェラーラ、ヴェローナでもルネサンスが花開いたが、ほんとうに平和な時代は短かった」

   その後も混乱は続いた。フィレンツェでは、進軍してきたフランスへの対応が不首尾だったとしてメディチ家が支配の座を追われ、変わって政治顧問となったサヴォナローラが「神権政治」を敷く。サヴォナローラ失脚後、フィレンツェ第2書記官長に就任したマキャァヴェッリは、サヴォナローラを破門したアレクサンドル6世の子チェザーレ・ボルジアと和議を結ぶべく奔走する。こうした歴史を振り返って澤井さんは言う。

「ルネサンスによって、中世が終わり、人間賛歌の再生の時代になったというのは誤りでしょう。まさにルネサンスと中世は連続していた。ルネサンスを『黄金時代』として描くのは、イギリスのジョン・アディントン・シモンズらの著書の影響が大きいが、実態は違っていました。哲学書の内実も神学が九割を占めていたほどです」

   ルネサンス文学を研究する澤井さんの目に、コロナ禍はどう映っているのか。最後にそううかがってみた。

「ペストが欧州に広がった時代、当時の医術では外科が比較的発達していたのに、外部からは窺えない内科医療は未発達で、依然として古代ギリシア伝来の四体液説で診断・治療をするのが実状だった。そうした未発達な客観知(サイエンス)の隙を衝いてペストが蔓延すると、今度は悪魔学による魔女狩りが行われるようになる。当時の学問の限界と、負の側面は表裏一体のものだと思う」

   そうした前提の上で、21世紀のコロナ禍が突き付ける問いについて、澤井さんはこう話す。

「地球寒冷化の時期に広がったペスト禍と違い、コロナ禍は地球温暖化の下で起きている。当時と違って、17世紀前半に起こった科学革命にも似て、正なる自然科学は格段と進化し、現代ではITからAIへと技術は飛躍しようとしている。でも、どれほど科学や医療が進化しても、人間の力では抑えられない限界がある。その限界に直面した時、必ず往時の魔女狩りのような負の側面(コロナ禍)もつきまとうということを、忘れないようにしたい、と思う」

   澤井さんの話をうかがいながら、私は30年以上も前、スイスやフランスの僧院で見た「死の舞踏」の絵を思い出していた。フランス語で「ダンス・マカーブル」。14世紀ごろ北フランスで始まり、欧州一円に広がった主題の絵画だ。その名の通り、「死の舞踏」は、死者が次々に生者を死の世界に引き込む情景が描かれている。生者には教皇、枢機卿、皇帝、国王というふうに、身分の高い人と世俗の人が交互に登場し、道化や物売りなど、あらゆる階層に及んでいる。

   メメント・モリ。死を忘れるなかれ。ペスト禍が欧州に残した置き土産だ。

   当時はその不吉な絵を、薄気味の悪い、無粋な絵としか思わなかった。

   しかしコロナ禍が広がる今はその絵が、黒死病に苦しんだ人々が、必死に後世に伝えようとしたメッセージではなかったか、と思うことがある。盛者必衰。私たちが引き継いできた「無常」の文化にも、そのメッセージは流れているのかもしれない。

   科学や医療の限界にぶつかったときに現れる負の側面に目を凝らしていよう。お二人の話をうかがって、そう思った。

ジャーナリスト 外岡秀俊




●外岡秀俊プロフィール
そとおか・ひでとし ジャーナリスト、北大公共政策大学院(HOPS)公共政策学研究センター上席研究員
1953年生まれ。東京大学法学部在学中に石川啄木をテーマにした『北帰行』(河出書房新社)で文藝賞を受賞。77年、朝日新聞社に入社、ニューヨーク特派員、編集委員、ヨーロッパ総局長などを経て、東京本社編集局長。同社を退職後は震災報道と沖縄報道を主な守備範囲として取材・執筆活動を展開。『地震と社会』『アジアへ』『傍観者からの手紙』(ともにみすず書房)『3・11複合被災』(岩波新書)、『震災と原発 国家の過ち』(朝日新書)などのジャーナリストとしての著書のほかに、中原清一郎のペンネームで小説『カノン』『人の昏れ方』(ともに河出書房新社)なども発表している。

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