2021年に開催された東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会(東京2020大会)から5年がたった。大会を契機に新たに建設された競技施設は現在、どのように使われているのか。また、競技以外にどう利用されているのだろうか。
その6施設――カヌー・スラロームセンター、海の森水上競技場、東京アクアティクスセンター、大井ふ頭中央海浜公園ホッケー競技場、夢の島公園アーチェリー場、有明アリーナのうち、今回はカヌー・スラロームセンター、海の森水上競技場のいまを取材した。
江戸川区立上小岩第二小学校の児童たちが遊覧ラフティングを体験(カヌー・スラロームセンターで)
世界の一流選手が競った国内唯一の人工激流コース「カヌー・スラロームセンター」
「イチ、ニー、イチ、ニー......」小学3年生が遊覧ラフティングを体験している。子どもたちは手にパドルを持ち、インストラクターのかけ声に合わせ、慣れない手つきで動かしている。
ここは東京都江戸川区にある「カヌー・スラロームセンター」。東京2020大会の競技会場となった施設だ。現在は、日本のトップレベルのアスリートの競技力強化のためのナショナルトレーニングセンターに指定され、強化指定選手のトレーニングなどに対応しているが、その一方で、冒頭のような教育的なプログラムも行っている。
江戸川区立上小岩第二小学校・小野塚良朋校長
子どもたちは江戸川区立上小岩第二小学校の児童。同校が遊覧ラフティングをカヌー・スラロームセンターで始めたのは4年前。小野塚良朋(おのづか・よしとも)校長はこの施設の魅力を熱く語る。
「ここで世界各国の一流の選手が集まって競い合ったわけです。いまも一流の選手が練習していて、私たちが訪ねたとき、偶然、羽根田卓也(はねだ・たくや)選手(リオ2016オリンピック・銅メダリスト)と会ったことがありました。子どもたちは、大喜びでした。ともかく、こんなすごい施設はなかなかありません。江戸川区が誇る施設です。江戸川区の校長会でもここの魅力を語って、ぜひ一度行ってみてくださいと勧めました。江戸川区は三方を水に囲まれた町です。昔から洪水に悩まされたりしながらも水と共生してきました。ウォータースポーツに親しみながら、水を感じ、考えるいい機会を得られると思います」
カヌー・スラロームセンターが誕生してから、選手たちの練習環境にも変化があった。同施設を管理する株式会社協栄の営業本部PPP事業部課長・武藤亮(むとう・りょう)さんはこう語る。
「練習環境が一変したと言っています。それ以前は、練習といえば河川でした。ところがこの施設のおかげで遠出する必要がなくなり、選手の負担が減った。さらに国際試合はすべて人工コースなので実戦に近い練習ができるという点も大きいです。この近所に住まいを移して練習に励む選手もいるほどです」
選手だけでなく一般の人たちにも幅広く利用してもらうため、武藤さんたちはさまざまな試みを行っている。
ラフティングツアーなどを入り口に水上スポーツ人口が増えてほしい
たとえば、水上スポーツの普及だ。この施設は大きく3つに分かれており、激流が流れる「競技コース」、ゆるやかな流れがある「ウォーミングアップコース」、流れがほとんどない「フィニッシュプール」がある。
冒頭に紹介した遊覧ラフティングはフィニッシュプールで行われていたものだ。また、競技コースでは小学生から参加できるラフティングツアーを5~10月に開催している。このほか、カヌー体験は初心者向けに、カヤック講習会は初心者から上級者までレベルに応じて実施している。
「ラフティングツアーはバーベキューもできるプランになっているのですが、これが人気で、予約がいっぱいのときもあります。そうした体験を通じて水上レジャーに親しむ人が増えて、河川でもカヌーに挑戦する人や、競技に進む人がでてくることを願っています。江戸川区にはカヌーができる場所がいくつかあるなどカヌーには力を入れており、カヌーの町として存在感を発揮していければと思っています」(武藤さん)
カヌー・スラロームセンターを管理する協栄の営業本部PPP事業部課長・武藤亮さん
交通アクセスがいいので、ビジネスパーソン向けの企画も考えている。たとえば、ナイター設備を利用した「ナイトラフティング+テラスで一杯」という楽しみ方。また、新入社員研修の一環として、ラフティングを使ったチームビルディングのプログラムも提案する。
プールは、水難訓練にも活用されている。水の流れを作り出せるプールなので、「離岸流」を再現できる。海岸の波打ち際から沖に向けて速い速度で進む水流で、水難事故の原因になる。水泳用のプールでは得られないリアルな「溺れの体験」と、その対処方法を日本ライフセービング協会の指導のもとで学べる「カヌスラで海そなえ!」を実施している。同プログラムを通して、ライフジャケットの重要性や水を恐れるのではなく、安全に遊ぶ方法を学ぶことができる。2023年の開業以来毎年実施され、600人以上が参加したという。
さらに周辺施設と連携することで、地域の魅力、価値を高めることも目指している。隣接する葛西臨海公園を訪れる子供連れの方々にも、気軽に訪れてもらえるよう、土曜・日曜日にはキックボード、イージーローラー、ハンモックブランコを用意したり、家族も楽しめるイベントを開催している。
海の森水上競技場がローイングにとって特別な場所に
水上スポーツのもう1つの施設に、江東区の「海の森水上競技場」がある。東京2020大会では、ローイング競技とカヌー競技が行われた。ローイング競技とはかつてのボート競技で、競技団体名、競技名ともに2023年に名称変更された。
取材当日も第104回全日本ローイング選手権大会が海の森水上競技場で行われていた。東京2020大会終了後もこのような全日本クラスの大規模な競技大会が毎年実施されており、来年9月には「パラカヌー・ワールドカップ」が開催されることが決まっている。
日本ローイング協会の業務執行理事・細淵雅邦さん
公益社団法人日本ローイング協会の業務執行理事・細淵雅邦(ほそぶち・まさくに)さんに、海の森水上競技場が整備されたインパクトを聞いた。
「日本で国際大会が開催できる会場は少なかったのです。海の森水上競技場という世界レベルの競技場ができたことは、大会をするにしても練習するにしても、選手はモチベーションが上がります。海の森水上競技場は2024年にナショナルトレーニングセンターに指定されました。陸上やサッカーにとっての国立競技場、ラグビーならば花園ラグビー場、高校野球にとっての甲子園球場......というように、ここはローイングにとっての聖地であるといえます」
パラカヌー選手の瀬立モニカ選手(パリパラリンピック[女子KL1]6位入賞)
パラカヌー競技の瀬立モニカ(せりゅう・モニカ)選手(パリパラリンピック[女子KL1]6位入賞)によれば、「海外のカヌー競技場は、都市から離れた場所が多いのですが、海の森は世界の競技場の中でも、最も都市に近く、多くのファンが見に来やすく、そしてバリアフリーも進んでいます。カヌー界を盛り上げるには素晴らしい会場です」という。
現在、ローイング選手の登録者数は約1万人だが、細淵さんはデジタル技術を活用したアプローチでスポーツ参画人口をさらに拡大したいと考えている。注目しているのが、リアルな運動とデジタル空間を融合させた「コネクテッド・ローイング」――いわゆるバーチャルスポーツだ。
これは、ローイングマシンというトレーニング機器にセンサーや通信技術を掛け合わせ、オンライン上で世界中の漕ぎ手とリアルタイムに競い合う仕組みだ。「リアルとデジタルのハイブリッドによる新たなスポーツ価値の創出」として急速に世界へ浸透しており、場所や年齢を問わずに誰もがアクセスできる次世代のローイングとしてその普及に注力している。
細淵さんが海の森水上競技場のプレゼンスを高めると期待しているのが、ボランティアの存在だ。東京2020大会のローイング競技でボランティアとして参加してくれた人たちがいまもつながっている。1回限りの関係ではなく、次の大会にも自発的に戻ってきてくれる絆があるという。
「私たちが目指しているのは、ボランティアのみなさんも『大会の主人公』であるという大会づくりです。その絆を東京大会のレガシー(遺産)として、当時のスタッフや役員、さらには東京マラソン、ラグビーW杯など多方面のボランティアのみなさんが再び集う『リユニオン(再集合の場所)』として毎年開催しています。われわれも毎年、ボランティアのみなさんにボートを漕ぐ体験を『2020記念レガッタ』という形で用意しており、和気あいあいとその魅力を体感してもらっています。するとみなさんが今度は、最高の発信者となって、新たなローイングファンを海の森へ連れてきてくれるんですよ」
複数の隊が連携し、実災害に近い環境下で水難救助訓練ができる
東京消防庁の水難救助訓練の様子。年間約40回行われるという
この施設が別の顔を見せるのは、東京消防庁の水難救助訓練などが行われているときだ。
どんな訓練が行われているのか。東京消防庁の、佐藤良太(さとう・りょうた)さん(警防部救助課訓練係長、消防司令)、灘波智之(なんば・ともゆき)さん(足立消防署 綾瀬水難救助隊隊長、消防司令補)、村山昌大(むらやま・しょうた)さん(警防部救助課救助係、消防士長)に聞いた。
訓練の頻度は、2024年から79回開催され、延べ1600人以上が参加している。訓練内容としては、人が溺れている場合や、水底に沈んでしまった場合などを想定して行われる。
「これまで、都内6署に配置されている水難救助隊は当庁保有の訓練用プールや管轄区域の河川で主に訓練を実施していました。河川での訓練では航行船の往来もあり、訓練中の安全監視が必須です。しかしこの競技場は、占有空間であり、風が吹くなど、実災害に近い環境で訓練に専念することができます。水中では、足に装着するフィンの扱い方を間違えると、砂を巻き上げて視界を悪くします。そうならないようにするためのフィンコントロールの訓練にもなります」(村山さん)
東京消防庁の佐藤良太さん、灘波智之さん、村山昌大さん(写真左から)
隊員同士の意思疎通を図る訓練にも適しているという海の森水上競技場で行う訓練は、他の隊と2隊で行うことに意味があるというのは灘波さんだ。
「実際の災害では水難救助隊2隊が現場で活動することが多く、共に訓練することで、各隊長の考え方や隊の動きを実際の目で確かめられますし勉強になります。また、各隊のレベルアップにもつながります」(灘波さん)
佐藤さんは2隊で行う意義について
「2隊で行うことにより、より実災害に近い形で訓練を行うことができます。水難救助事象は緊急性が高く、1秒でも早く要救助者を救出するためには、各隊の能力のみではなく、緊密な連携が特に重要であるため本訓練を参画しています。この競技場で向上させた能力が、より多くの人命救助に直結すると考えています」
と話してくれた。
カヌー・スラロームセンターと海の森水上競技場は、自らの限界に挑戦する選手を支えるとともに、人々が安心して、そして豊かに暮らすための施設として活用され、さまざまな価値を提供している。