週刊文春(1月18日号)の「ツチヤの口車」で、哲学者の土屋賢二氏が「冒険」について書いていた。ただし秘境探検のたぐいではなく、日常生活に潜む数々のリスクにまつわる話だ。いわく「冒険の中でもっとも恐ろしいのは、知らず知らずのうちに冒険している場合である」。氏によれば「年をとると、好むと好まざるにかかわらず冒険漬けになる」らしい。手術を受けるのも、受けないのも冒険、自宅階段の上り下り、そして外出もしかり。電車で泣いている赤ちゃんがいたら? (写真はイメージ)土屋氏はここで、混みあう電車で母親に抱かれた赤ん坊をあやそうとして、大泣きされた過日の体験に触れる。「母親が振り返ってわたしをにらみ、他の乗客も非難の目をわたしに向けた」と。ところが土屋夫人は、泣いている赤ん坊を泣き止ませたことがある、と夫に告げる。「妻はふだん鬼のような顔をしているが、笑うと鬼が笑ったような顔になる」。これはユーモア随筆の達人として、あるいは恐妻家としての読者サービスだろう。で、その妻がどうしたかといえば「あまり泣くからにらんでやった」というのである。てっきり妻があやしたのだろうと思いながら話を聞いていた哲学者は考える。「赤ん坊も生まれたときは、こんな危険が待ち受けているとは想像もできなかっただろう。電車で泣くのも冒険だと悟ってくれるのを祈るばかりだ」と。なるほど、安定のオチである。「恐怖はいつも新鮮だった」確かに現代社会、とりわけ大都市で暮らすことは、それ自体が冒険といえる。土屋氏の言葉を借りれば「地雷原をスキップしながら走り回っているのに等しい毎日」である。私は日常的にクルマを運転するのだが、ほとんど戦場で運試しを重ねているようなものだ。幸い、ヨーロッパ在勤時を含め命に関わる事故はないけれど、あの道を通らなければとか、5分早めに出ていればといった古傷はいくつかある。さて、ホンモノの冒険家、植村直己(1941~1984)は「恐怖はいつでも新鮮だった」という言葉を残している。だからこそ、あえて非日常を選びとり、時には己に「非常」を強いた。なにかに憑かれたように氷雪に挑み続ける植村を、妻の公子さんは自宅でひたすら待つ。10年足らずの結婚生活のうち、期間にして半分は「待つ女」だった。植村は1978年春、単独で北極点をきわめた。帰国せぬまま、今度はグリーンランド単独縦断の旅を始める。そのさなか、文芸春秋誌に載った「極点到達」の手記に、「女房よ、俺のわがままを許せ」と書いた。それを読んだ公子さんが記している。<冗談じゃありません。あなたのワガママを許していたら、堪忍袋が幾つあっても足りません。一緒になるときめた時から、あきらめているだけです...それでも好きだから、ジッと待っているのです。留守の間はのんびりしていると思うでしょうが、食べて生活していかなければならないのです。生きてゆかなければならないのは、極点も東京も同じです>極地の夫への、少し屈折した、しかし愛情あふれる「喝」である。不穏な予言冒険家もその妻も、あなたも私も、生きてゆかなければならない。あらゆる生活者を見舞う「新鮮」な試練や危険を乗り越えて。あやした(つもりの)赤ちゃんから、いきなりの天変地異まで、素人を不意の冒険へと引き込むワナは四方で口を開けている。「9・11」を境に世界で相次ぐ無差別テロ、時間の問題とされる首都直下型地震、さらには北朝鮮やトランプ大統領の存在を思うとき、私は冒険家の妻の、40年前のボヤキにはっとする。<極点も東京も同じです>不穏にして、的確な予言ではないか。冨永格****************新聞社の「コラム職人」だった筆者が、雑誌を中心にコラムや随筆を読みあさり、これと思ったものから書き起こします。水と緑を求めて移ろう遊牧民のように、表現のオアシスを探しての放浪にお付き合いください。
記事に戻る