2019年 4月 19日 (金)

小室哲哉のBOXセット
「平成の女性群像」を見るような

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   「さよなら平成・1」

   タケ×モリの「誰も知らないJ-POP」

   もうすぐ平成が終わる。

   年号が変わるからと言って何が変わるんだという気がしないでもないけれど、それでも自然に感慨深くなってしまう。

   平成の30年あまり。音楽業界も含めたシーンの変化という意味ではこんなに激しく様相が変わった時代はないからだ。色んなことがあった、忘れられない曲が残った、そして、様々な人がデビューしては消えて行った。

   平成という時代を三回に分けて辿りなおしてみたいと思う。

  • 「TETSUYA KOMURO ARCHIVES BOX」(アマゾンHPより)
    「TETSUYA KOMURO ARCHIVES BOX」(アマゾンHPより)

バンド自身が作詞や作曲

   1989年1月。つまり平成元年の最初のヒット曲が何だったかご記憶だろうか。1月11日、平成になって三日目に発売になったのが美空ひばりの「川の流れのように」だった。

   作詞・秋元康、作曲・見岳章。レコード会社が用意したシングル曲に納得しなかった本人が「若い人とやりたい」と希望してディレクターの机の引き出しにオクラになっていた企画書が陽の目を見たという一曲だ。その半年後の6月24日、彼女は52歳の生涯を終えた。つまり、「平成」という時代は美空ひばりの死去から始まった。

   一つの時代が終わり、新しい何かが始まって行く。89年の年間チャートの一位は、ガールズロックのヒロイン、プリンセス・プリンセスの「DIAMONDS」だった。

   平成の幕開けとともにピークを迎えたブームがある。バンドブームだ。

   もちろん、それまでもバンドは存在した。60年代の後半には日本で最初のバンドブーム、GS(グループサウンズ)があった。ビートルズに象徴されるエレキバンドの日本上陸。ブルー・コメッツ、スパイダース、タイガースにテンプターズ。テレビの歌番組やCM、芸能誌がバンド一色になった。そして、10代の少女たちが熱狂した。それが第一次バンドブームだった。

   平成のバンドブームは、その時とは決定的に異なる点が二つあった。

   一つは、バンド自身が作詞や作曲をしていたことだ。GSのバンドの歌ったヒット曲のほとんどが職業作家の手によるものだった。中にはそういう曲をステージでは歌わないという気概を見せていたバンドもいたものの、それは少数派にとどまっていた。プリンセス・プリンセスは、メンバー全員が作詞や作曲をするというクリエイティブな集団だった。

   二つ目は、バンド自体の大衆化である。

   普通の中高生がバンドを組む。中には学校の先生が後押しをするという例もあった。文化祭で初めてステージを踏む。そして、数年後にはデビューする。レコード会社にはバンドなら何でもいいという空気もあった。

   そんなきっかけになったのがREBECCAとBOO/WY、BLUE HEARTSらだ。特に、男子中高生の間で絶大な影響力を持っていたのがBOO/WYだった。出場バンドの大半がBOO/WYのコピーというアマチュアコンテストも少なくなかった。

   ただ、いつの時代もそうであるようにブームは短命に終わる。BUCK-TICKやX JAPAN、LUNA SEAら"ビジュアル系"と呼ばれたバンドを送り出した時点でその役割を終えた。

   Mr.Childrenやスピッツ、GLAYやラルク・アン・シエルら、90年代に入ってデビューしたバンドはブームが目の前で崩壊するのを見ている世代でもある。消費されない活動というのが彼らのその後の在りようを決めていると言って良いだろう。90年代の前半に彼らが残したヒット曲はどれもスタンダードになっている。"良い曲を書くバンド"というのが彼らの共通点となった。

歌いたくなるダンスミュージック

   バンドブームと入れ違うように訪れたのが"メガヒット"が量産される時代だった。

   その方程式となったのが"ドラマ主題歌"である。270万枚の小田和正の「ラブ・ストーリーは突然に」や280万枚のCHAGE&ASKAの「SAY YES」。トレンディードラマと呼ばれた恋愛ドラマを支えていたのが70年代にニューミュージックと呼ばれた音楽の聞き手たちだ。

   当時10代だった女性が、仕事や家庭を持ち、コンサートから足が遠のく中で、その頃はテレビに出なかったアーティストたちの曲が流れてくる。実力派シンガーソングライターの活躍。テレビに出ないままにメジャーになった浜田省吾の81年の曲「悲しみは雪のように」が主題歌になって200万枚も売れた。アルバムで日本で最初の200万枚ヒットとなったのが91年の松任谷由実のアルバム「天国のドア」だった。

   昭和の実質的な最後の年、1988年はアナログ盤が全面的にCDに切り替わった年だ。

   アナログからデジタル。その変化が平成を史上最も激変した時代にしている最大の要員だろう。コンピューターが音楽づくりの主役になった。人の手で演奏するのには熟練を要すると言われていたR&Bが"ニューR&B"として生まれ変わった。90年代半ばのダンスミュージックの隆盛は、その結果だった。最大の原動力、旗手となったのが、TK、小室哲哉。90年代の音楽シーンの最大ヒーローが彼だ。94年、TM NETWORKを終了したのと彼の名前をグループ名にしたTRFが爆発的に売れるのとはほぼ同時だ。TETSUYA KOMURO RAVE FACTORY。それまではアンダーグラウンドな音楽だったダンスミュージックが最前線の音楽になった。史上最速1000万枚突破が彼らだった。

   なぜ小室哲哉の音楽があんなに受け入れられたのか。いくつもの状況的要因がある。

   例えば、カラオケである。

   マハラジャに代表されるディスコでの踊りとカラオケでの歌唱が一体になった。"歌いたくなるダンスミュージック"というのは、彼が初めてだろう。"歌いたい"と思わせた背景に歌の中の"女性像"がある。globeは女性がヴォーカルだった。篠原涼子、安室奈美恵、華原朋美。彼女たちが歌う「都会の女性の息遣い」への共感。95年4月、シングルチャートの1位から5位を独占した安室奈美恵、華原朋美、globe、dos、TRFという5組のヴォーカルは全て女性だった。"プロデューサーの時代"というのもここから始まった。

   去年、発売になった、小室哲哉の作品を集めた「TETSUYA KOMURO ARCHIVES」はその証しだろう。「T」と「K」。それぞれ50曲ずつに加えた14曲、計114曲9枚組のBOXセットは平成の女性群像を見ているようだ。

   平成最初の10年は、史上最もCDが売れた10年だ。98年にデビューした宇多田ヒカルの一枚目のアルバム「First Love」は、800万枚という天文学的な枚数を残している。98年、99年はCDの枚数だけでなくレコード会社の売り上げでも史上最多となった。

   音楽業界が空前のバブルに沸く中で90年代が終わろうとしていた。

(タケ)

タケ×モリ プロフィール

タケは田家秀樹(たけ・ひでき)。音楽評論家、ノンフィクション作家。「ステージを観てないアーティストの評論はしない」を原則とし、40年以上、J-POPシーンを取材し続けている。69年、タウン誌のはしり「新宿プレイマップ」(新都心新宿PR委員会)創刊に参画。「セイ!ヤング」(文化放送)などの音楽番組、若者番組の放送作家、若者雑誌編集長を経て現職。著書に「読むJ-POP・1945~2004」(朝日文庫)などアーテイスト関連、音楽史など多数。「FM NACK5」「FM COCOLO」「TOKYO FM」などで音楽番組パーソナリテイ。放送作家としては「イムジン河2001」(NACK5)で民間放送連盟賞最優秀賞受賞、受賞作多数。ホームページは、http://takehideki.jimdo.com
モリは友人で同じくJ-POPに詳しい。

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