2020年 6月 1日 (月)

つい使いたくなる季語 川上弘美さんは「湯に浮く乳房」に春を愁う

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   NHKテキスト「すてきにハンドメイド」3月号の「私の好きな季語」で、川上弘美さんが多用しがちな季語について記している。タイトルは「春愁」。

「俳句をつくりはじめたころ、すぐに使いたくなってしまう季語が、二つありました。その一つが、この『はるうれい』。『しゅんしゅう』とも読みます」

   筆者が引用する日本大歳時記(講談社)によると、〈春の物思いであり、憂えであり、哀愁である。歓楽きわまって哀情が深いといった感じにも言う〉とある。小説を書く人間にとって、こうした感情はとても身近なのだという。

「小説中では、人はすぐさま恋に落ち恋に破れ友と別れ大切なものをなくすものです。考えてみれば、作者とはそのようなつらい目を、自分の登場人物に平然と味わわせる、冷酷な人間なのですなあ」

   それで自作の句にも進んで採り入れることになった。少しばかり色っぽい感じもあるので、俳句をやるようになった30代半ばには盛んに使ったそうだ。

   もう一つ多用した季語は「秋思」。これまた秋の物憂い気分のことで、春愁よりやや枯れたニュアンスである。「このごろは年のせいか、『秋思』に心が動く日々です」

  • 暖冬だった今年は「春愁」も早め? 三浦半島のカワヅザクラ=冨永写す
    暖冬だった今年は「春愁」も早め? 三浦半島のカワヅザクラ=冨永写す
  • 暖冬だった今年は「春愁」も早め? 三浦半島のカワヅザクラ=冨永写す

ひとつだけ残した作

   ところが、気持ちよくひねった「春愁」や「秋思」の句は評判がいまひとつで、褒めてくれる人が少ないそうだ。

「トゥーマッチになってしまうのだと思います。俳句は、短い詩です。その中に、濃い感情がのせられすぎていると、うるさいのです。君の憂いは、まあそれでいいけれど、自分には関係ないしね、それよりももっと広い世界のこと見せてよ、という感じでしょうか」

   そんなわけで、10年前の第一句集(集英社刊『機嫌のいい犬』=冨永注)では、たくさん作ってきた「春愁」「秋思」の句をばっさり捨て去った。中で一つ残したのが...

〈はるうれひ乳房はすこしお湯に浮く〉
「この『春愁』ならば、ちょっと愉快なふうもあって、押しつけがましい『愁い』ではなくなったかなと、おそるおそる選んだのも、なつかしい思い出です」

   実は川上さんのこのエッセイ、8年続いた連載の最終回(全96回)である。

「連載をまとめたものが一冊の本になる予定ですが、それにしても連載が終わってしまうのがさみしくて、原稿を書きながら春愁にひたっている次第。みなさま、長い間本当にありがとうございました。いつかまたどこかでお会いできますように」

   長年の読者がいずれ再び、自分の文章に接することを「お会いできる」と表現するのもなかなかおしゃれである。いつか使わせてもらう。

「川上弘美になる瞬間」

   NHKの番組「すてきにハンドメイド」は、2010年春からEテレで放送されている。洋裁を中心に、小物から雑貨まで「作ってワクワク、使ってウキウキ。世界でたった一つの作品を作りませんか」がコンセプト。手づくりの楽しさを視聴者と共有する25分間(放送は毎週木曜夜)である。実用番組の常で、NHK出版から作り方を詳解するテキストが出る。

   なるほど、俳句も「たった一つのハンドメイド」ではあるのだが、彩り豊かな写真や図解で埋まるテキストにおいて、芥川賞作家による連載はやや異色のページだった。

   短詩も文学だから、小説家がたしなむことには何の不思議もない。川上さんが俳句を始めたという30代半ばから後半は、文壇デビューの時期と重なる。ちなみに芥川賞は38の時。もはや「作家の趣味」を超えて、俳人でもある。作り手の立場で季語を語るこの連載は、季節感や語感を養うという意味で参考になり、私も愛読させていただいた。

   彼女の初句集に同世代の歌人、穂村弘さんはこんな言葉を寄せている(朝日での書評)。

〈句集としてみても魅力的だが、彼女の小説の愛読者が読むと、一層興味深いと思う。何故なら、川上弘美が「川上弘美になる瞬間」をクローズアップで、何度も繰り返し味わうことができるからだ〉

   ならば大団円を迎えた連載は、「川上弘美による、その瞬間の解説」とでもなろうか。

冨永 格

冨永格(とみなが・ただし)
コラムニスト。1956年、静岡生まれ。朝日新聞で経済部デスク、ブリュッセル支局長、パリ支局長などを歴任、2007年から6年間「天声人語」を担当した。欧州駐在の特別編集委員を経て退職。朝日カルチャーセンター「文章教室」の監修講師を務める。趣味は料理と街歩き、スポーツカーの運転。6速MTのやんちゃロータス乗り。

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