2024年 4月 25日 (木)

人気絶頂の社交家フランツ・リストも引きこもりだった

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フランス7月革命で街に出るように

   本当に体調も崩してしまったリストは、1828年ごろから、文字通り部屋から出なくなります。パリの社交界には「リスト死亡説」まで流れる始末でした。幼い頃から神童として人前で喝采を浴びてきて、青年期から大人になって挫折を味わい消えてしまう・・というパターンは多いのですが、17歳の多感なリストも、その瀬戸際にいたのかもしれません。

   しかし、天はリストを見捨てなかったからでしょうか、彼の周囲、すなわちフランス・パリでは、エキサイティングなことが起こります。1830年7月、フランス7月革命が起こるのです。生涯に渡って政治的というより宗教的だったリストは、革命の内容を必ずしも把握していなかったかもしれませんが、彼は一端の革命家気取りで、街に出るようになります。ベートーヴェンの「ウェリントンの勝利」に習って「革命交響曲」的なものを書こうとし、まだ未熟だったため、作品としては完成しませんでしたが、後年の交響詩につながる作曲手法を身につけます。

   民衆の革命によって、立憲君主制となったフランス。パリはエネルギッシュな都会となり、その後もリストにエネルギーを供給し続けます。すなわち、同じく革命家気取りだった作曲家、ベルリオーズと知り合いとなり、彼のエネルギッシュな「幻想交響曲」に刺激を受け、翌年には、ヴァイオリンの魔神、ニコロ・パガニーニの超絶技巧の演奏に接して雷に打たれたように感動し、「ピアノのパガニーニになる!」と決心し、さらに翌年には、パリに現れたポーランドの天才、ショパンとも友人になります。

   すっかり、パリの社交界に復帰したリストは、音楽家としても人間としても一回り、大きくなりました。まだまだ作曲家としては駆け出しだったので、この時期の作品は上記革命交響曲を始めスケッチだけだったり、お蔵入りになったものも有るのですが、生涯に渡って2度大きな改定をし、代表作となった「超絶技巧練習曲」の初版も作曲するようになりました。

   社交家で人気者であったリストにもあった「お籠り期間」。そして、それは確実にその後の彼の人生の糧となっています。今は、全世界で「籠もらなければいけない」時期となっていますが、いつか、外に自由に出ることができるようになったときに、より良い時間を持つために、読書や思索や練習の時間としたいものです。

本田聖嗣

本田聖嗣プロフィール
私立麻布中学・高校卒業後、東京藝術大学器楽科ピアノ専攻を卒業。在学中にパリ国立高等音楽院ピアノ科に合格、ピアノ科・室内楽科の両方でプルミエ・プリを受賞して卒業し、フランス高等音楽家資格を取得。仏・伊などの数々の国際ピアノコンクールにおいて幾多の賞を受賞し、フランス及び東京を中心にソロ・室内楽の両面で活動を開始する。オクタヴィアレコードより発売した2枚目のCDは「レコード芸術」誌にて準特選盤を獲得。演奏活動以外でも、ドラマ・映画などの音楽の作曲・演奏を担当したり、NHK-FM「リサイタル・ノヴァ」や、インターネットクラシックラジオ「OTTAVA」のプレゼンターを務めるほか、テレビにも多数出演している。日本演奏連盟会員。

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