2020年 8月 15日 (土)

いわしバターの悦楽 平松洋子さんは作り継いで「冷蔵庫のお宝」に

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   GINZA 5月号の「小さな料理 大きな味」で、平松洋子さんが「いわしバター」なるものを実に美味しそうに書いている。後述するが、私も自作の誘惑に勝てなかった。

   イワシとバターの意外なマリアージュ。平松さんはこれを、フランスの作家シドニー=ガブリエル・コレット(1873-1954)の随筆で知ったそうだ。同性愛を含む性の解放を唱え、彼女自身も華麗な恋愛遍歴で知られたコレット。フランス文壇の重鎮として、最期は国葬で送られた。奔放な生活でも知られた、いわゆる「自立した女性」の先駆けである。

   平松さんの目にとまったのは、1930年代、南仏はプロヴァンスでの日々を綴った文章だ。タイトルは「イワシのサンドイッチのおべんとう」。手づくりの昼食を携え、自転車でピクニックに出かけた思い出を記した作品らしい。

「あんまりおいしそうだったからすぐ作ってみたくなった。オイルサーディンはいつも数缶常備してある、バターもある、レモンもある、本を閉じたらすぐ作れる!」

   食エッセイの名手、平松さんのレシピはざっと以下の通りである。

(1)油を切ったオイルサーディンをボウルで荒く潰し、レモン汁をかける
(2)軟らかくしておいたバター40gを混ぜ込み、塩コショウで味を調える
「いわしとバター、いっけん距離のある食材に思えるけれど、そうじゃない。この相性のよさを取り逃がしていたなんてうっかりしてたなあ、と私は歯噛みした」
  • バゲットにたっぷりぬってランチ、クラッカーに軽くのせて前菜に
    バゲットにたっぷりぬってランチ、クラッカーに軽くのせて前菜に
  • バゲットにたっぷりぬってランチ、クラッカーに軽くのせて前菜に

潰しすぎず練りすぎず

   作り方はいたって簡単だが、平松さん曰く、イワシを潰しすぎないこと。この青魚の繊維は太くカサつく。そこにバターがまんべんなく染み込むと「ねっとりふんわり、蠱惑(こわく)的な味」になるそうだ。ペースト状にはしても、練りすぎてはいけない。

「あまりなめらかだと、かえって面白くない。ボソボソの粗いいわしを、じゅうぶんやわらかくしておいたバターとふんわり合わせる感じです」

   コレットに教えられて以来、平松さんはこれを何度も作り継いでガラス瓶に詰め、冷蔵庫のお宝にしているという。それをフランスパンにパテのようにつける。「最高に生かすのは、やはりバゲット。断面にぎゅーっと塗りこめてかぶりつく。切っただけのセロリとかラディッシュ、チーズがあれば何の不足もない。もちろんワインも忘れない」

「コレットが自転車を漕ぐ姿をまぶたに思い描く。ソーセージ入りパイ、りんご、白ワインを詰めた水筒、いわしとバターをはさんだパン。これらを携えて自転車にまたがって出かけたすばらしき日が忘れがたい、と彼女は書いていた」

「異物」に味わいが

   いわしバター。なんともそそる語感である。この随筆を読んで、食したいと思う前に作ってみたくなった。私はオイルサーディンに(も)結構うるさくて、決まった銘柄の缶詰を4~5缶常備している。サラダに使うこともあれば、酒の肴にすることもある。

   早速、平松レシピに挑戦した。使った「スモークオイルサーディン」はラトビア産(輸入業者は大阪のトマトコーポレーション)で固形量70g(開けた缶では小ぶり11尾)、これをフォークで軽く潰し、湯煎した有塩バター45gを加えてもうひと練り。冷蔵庫で落ち着かせてから、輪切りのバゲットに「ぎゅーっと塗りこめて」かぶりついた。基本はバターなので、ウオッカなどのスピリッツとも相性が良さそうだ。

   さて、平松さんの文体の特徴の一つは、普通なら漢字で書く語句をあえて平仮名にすることだと悟った。私が引用した部分にも、いっけん(一見)、じゅうぶんやわらかく(十分軟らかく)といった表記が散見される。ついでに言えば「いわし」も、特にこだわりのない書き手であれば「イワシ」か「鰯」が多数派と思われるのだ。

   優しくも厳しい校閲チームの下で文章を紡いできた身としては、正直、こうした独特の用法に違和感を覚えないこともない。読者の好みも分かれるところだろう。楽しい食エッセイだから硬くしない、という意図はもちろん分かるし、プロだから多くは成功している。

   作中にちりばめられた言葉遣いの「異物」は、読者を立ち止まらせ、文章を反芻(はんすう)して味わわせる効果を持つ...ちょうど潰れずに残ったイワシの身のように。滑らかに流れすぎてはいけない文章もある。いわしバターのレシピと共に教えられた。

冨永 格

冨永格(とみなが・ただし)
コラムニスト。1956年、静岡生まれ。朝日新聞で経済部デスク、ブリュッセル支局長、パリ支局長などを歴任、2007年から6年間「天声人語」を担当した。欧州駐在の特別編集委員を経て退職。朝日カルチャーセンター「文章教室」の監修講師を務める。趣味は料理と街歩き、スポーツカーの運転。6速MTのやんちゃロータス乗り。

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